楽しく遍路

四国遍路のアルバム

中村の寺社や史跡の見学 添え蚯蚓遍路道 焼坂峠 へ

2024-03-13 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月19日 第3日目のつづき

中村駅
13:30 中村着
入野駅から電車で来ました。中村での見学時間を取るためです。
見学の細かな計画はありません。ただ、石見寺(いしみ寺)と中村城の二ヵ所は、外さないことにしています。どちらも中村を俯瞰できる場所です。
宿は、駅近くの「民宿中村」(新館)に予約しました。


まちバス
案内所で「まちバス」というサービスが始まったと聞きました。市内の主要観光地には「まちバス」のバス停があり、そこから「まちバスセンター」に電話するとバスがやって来て、次に自分が行きたい所、どこでも希望の観光地(バス停)まで運んでくれるのだといいます。
運賃は200円でした。バスを走らせるということは、基本、グループの観光客が対象ですが、一人旅であっても来てくれるとのことでした。


ジャコ天
早速まちバスに電話。石見寺へ連れて行ってくれるよう、頼みました。
案内所前のバス停で待っていると、側に宇和島のジャコ天屋さんがあったので、揚げたてを買いました。1つ多いようなので尋ねると、「お遍路さんやから」といいます。お接待してくださったのです。若い店員さんでした。オーナーさん、叱らないでください。
食べているうちにバスが来てしまいましたが、乗客は私一人なので、車内で食べることが許されました。


石見寺(いしみ寺)参道
安並運動公園まで「まちバス」で運んでもらいました。(写す角度が悪くて見えにくいのですが)信号の後方に、右に上る道が付いていて、それが石見寺への参道になっています。
なお、この参道は車も通れますが、すれ違いが出来ません。ご覧の信号は、そのための参道専用信号です。


石見寺参道
登りにかかります。
石見寺は薬師如来を本尊として祀る、真言宗のお寺です。中村の艮(うしとら・北東)に在り、 中村の鬼門を護っています。小京都・中村の、言わば比叡山延暦寺に相当するお寺です。
創建は大同年間(806ー810年)、弘法大師の開山とのこと。


景色
かつては四国八十八ケ所霊場・39番札所だったとも言います。
札所でなくなったのは、一條氏が城下に遍路(他国者)が入ることをが嫌ったからだ、とのことです。そのため札所を返上。代わって39番となったのが、当時は石見寺の末寺であった、現・39番の延光寺だと言います。
次の写真をご覧ください。


元・石見寺
後のことになりますが、平成28年(2016)、私は石見寺を再訪し、石見寺山に張り巡らされた、四国八十八ヵ所の写し霊場を廻りました。この写真は、写し霊場の第39番延光寺・薬師如来像です。台座には、・・第39番延光寺 元石見寺・・と刻まれています。
なお本ブログには、その時の、石見寺山の写真が1枚も掲載されていません。この機会に数枚、ご紹介させてください。


写し霊場の遍路道
写し霊場の遍路道は、石見寺山の山頂にも通じています。
石仏は、24番最御崎寺です。


山頂
山頂(411㍍㍍)には、見晴台もあります。


石見寺山山頂からの景色
見晴台からの景色です。渡川(四万十川)に向川(中筋川)が流れ込んでいる様が見えます。太平洋も望めます。


石段
閑話休題。
参道を登ってゆくと、石見寺の境内が見えてきました。しかし、ここからは入らず「正門」から入ってほしい旨、表示があります。
それはもっともなことである、ということで、ちょっと膝に痛みを感じている身には辛いのですが、手すりの助けも借りながら、「正門」から上ります。


境内
応仁2年(1468)、摂政関白太政大臣・一條兼良(かねら)は、長男・教房(のりふさ)をして、家領・幡多ノ多荘に下向させました。
前号「海の王迎」でも記したように、土佐は流刑のなかでも最も重罪とされる、「遠流の地」です。その土佐の西端の地に、兼良は、関白氏長者をも務めた長男を、送り込みました。
さて、兼良のその「心」は、那辺にあったのでしょうか。


本堂
兼良の「心」は、史家がいろいろと言及しているところですが、素人の大胆さで大雑把にまとめれば、次の様になりましょうか。
・その前年に起きた、応仁の乱の戦乱を避け、一條氏の本流を温存しようとした。(応仁の乱は、京都を主戦場としていました)。
・併せて、荘園を直接経営し、収入増を図ろうとした。「遠流の地」とは言え、それは都から見たらの話。その実、幡多が海に向けて開かれた、豊かな土地であることを、兼良は知っていた。


後川
幡多は実際、海路で阿波へも堺へも薩摩へもつながり、さらには琉球へもつながる土地でした。
Wikipediaは、土佐一條氏の対外交易についても触れ、次の様に記しています。
・・土佐一條氏はその地理的条件を生かして、海上交通や対外貿易にも関与したと考えられている。(中略)琉球や朝鮮との私貿易が行われていた可能性が高く、更に勘合貿易以外の交易路を用いた明との貿易や東南アジア方面との貿易の可能性も指摘されている。(後略)
とまれ、これにより、「土佐一條氏」が創まることとなります。


中村城
ところで「土佐一條氏」なる呼称ですが、これについて、私はいささかの疑問を感じています。やはり「幡多一條氏」が正しい、私はそう思うのですが、どうでしょうか。
往古、土佐と幡多は、文化・経済を異にする、別々のクニとされていました。すなわち東の都佐国と西の波多国です。
この基本構図は、一條氏が中村を築いた頃にも変わっていませんでしたから、中村を築いた一條氏は、やはり「土佐一條氏」ではなく、「幡多一條氏」と呼称すべきではないか、・・と、まあ、愚考するのですが、いかがなものでしょう。


後川
幡多と土佐の融合がはじまるのは、天正3年(1575)の、「渡川の戦い」以降のことです。言わば「土佐の長宗我部氏」が「幡多の一條氏」を破り、幡多は土佐の一部となってゆくのでした。皮肉なことですが、長宗我部の遠征軍が進んだ戦の道が、次には、文化・経済を通わせ合う道ともなるのです。
長宗我部が滅びた後は山内氏が土佐中村藩を立藩。これを支配して、幡多の土佐化は進みます。
なお、土佐と幡多を隔てる、最大の地形上の障壁は、窪川台地だったと言います。なるほど!体験的に私は、納得します。皆さまは、いかがでしょうか。


県立中村中高等学校
石見寺から後川橋を渡り、一條教房墓に向かいます。
途中、高知県立中村中学校・高等学校がありました。一貫校としての開設は平成14年(2002)ですが、その母体の一つである県立中村高等学校の設立は、遠く明治33年(1900)にまでさかのぼります。前号「大方あかつき館」で記した上林暁さんも、卒業生なのだそうです。(もう一つの母体である、県立中村女子高等学校については後述)


一條教房墓
教房は、幡多繁栄の基を築いた人です。「幡多一條氏の祖」と崇められています。
しかし、その功績の割りに、この墓が「貧相」にみえるのは、なぜでしょうか。
どうやらこの墓は、祀られていた寺(妙華寺)が、江戸時代、廃寺になってしまい、その存在が、長い間、忘れ去られていたそうなのです。そのことを惜しんだ地元の人たちが再興しましたが、今は、民家の間を少し入った、目立たぬ所に在ります。墓域も、さほど広くありません。


玉姫墓
教房を祖とする「幡多一條氏」は、初代・房家、二代・房冬、三代・房基とつながれ、前述の「渡川の戦い」を機に、四代・兼定で滅びます。
この墓は、二代・房冬に嫁した、伏見宮邦高親王の王女・玉姫の墓とされています。三代・房基(後述)の母です。
さて、時刻は、16:30を過ぎました。残る中村見学は明日とし、宿へ向かいます。


宿
駅近くの宿です。遍路の宿泊者は、いませんでした。
明日は午前中、中村見学をし、電車で窪川まで引き返します。
その後の行程は、次の様です。
 →添え蚯蚓遍路道→焼坂峠→安和→佛坂→宇佐→龍坂→36番青龍寺
 →塚地峠→清滝寺→帰宅

  平成21年(2009)12月20日 第4日目

不破八幡宮鳥居
宿に荷物を預け、新四万十大橋の東詰にある、不破八幡宮にやって来ました。
四万十川左岸を走るサイクリングロードを歩いて北上。中村城跡(郷土史料館)に登ります。途中、いくつかの寺社や史跡にも立ち寄るつもりです。


不破八幡宮
不破八幡は、教房が石清水八幡を勧請し、幡多郡の総鎮守としたのが興りとされています。一條氏が守護神として崇め、その後の支配者たち、長宗我部氏、中村藩山内氏からも、篤く信仰されました。
秋の大祭では、「神様の結婚式」という珍しい神事が行われるそうです。
四万十川下流に在る一宮神社(幡多一宮)の女神が乗る神輿と、不破八幡宮の男神の神輿との、「お見合い」神事です。一時横行した略奪婚への戒めが興りとされています。


幡多一宮神社(平成22年撮影)
また「お見合い」では歳占いが行われるそうです。一宮神社のいずれの女神が選ばれるかにより、その年がどんな歳になるか、占われたといいます。
例えば、椎名御前が選ばれると、今年は雨が多い年になる。なぜなら、この女神の頭にはビス(はげ)があり、これを隠す為に雨を降らせて笠を被るからだ、といった具合です。その他、徳益御前なら、得が増すので今年は豊年。鉾名御前なら、鉾は武器なので、喧嘩が多い歳になる、などと占うそうです。→(H22秋1)


相撲
神社ではよく、土俵を見かけます。
相撲が、神事として発祥したからでしょう。神前で執り行われ、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣などを祈ったといいます。また勝敗の結果から、占いも行われていたようです。


大楠
ご神木の大楠です。
樹齢は約550年と言いますから、教房が下向した応仁2年(1468)頃、植えられたことになります。



サイクリングロードで、犬と散歩中の女性に出会いました。犬を散歩させているのではなく、犬と散歩を楽しんでいるいう、そんな感じの方でした。
いろいろと話ながら、一緒に歩きました。


四万十川に架かる橋
女性は、・・なんでこんなに橋を架けましたかねえ。・・とおっしゃいます。たしかに橋は多いのです。写真には写りませんでしたが、この手前にも、もう一本、新・四万十大橋があります。
一番奥が通称「赤鉄橋」(四万十大橋)。その手前が「土佐くろしお鉄道」の宿毛線鉄橋。一番手前が「渡川大橋」です。


土佐くろしお鉄道 宿毛線鉄橋 
強い風が吹くときは、ちょっと恐い感じです。


しまうま
・・この遊び心、楽しいですね。・・と、散歩の女性に話すと、女性はペイントよりも重機そのものが気に入らなかったらしく、反論が返ってきました。
・・この辺には自然の遊水池があったのですけど、埋め立てられて、宅地になってしまいました。残念です。住宅用の空き地なんて、他にいくらでもありますがな!


もう、あきまへん
女性はまた、四万十川に棲むという巨魚・「赤目」についても話してくれました。
赤目はマンガ「釣り吉三平」で一躍有名になり、私さえも知っていたのですが、今はあまり見られないと言います。代わって外来種のブルーギルが増えているのだそうでした。
・・ボラの大軍が赤目を怖がって、ピョンピョン跳ねながら逃げるんですよ。それは壮観でした。前はよー見られたもんですが。


四万十川橋(通称赤鉄橋)
大正4年、降り続いた雨で四万十川が増水。渡し船の転覆事故が起きました。乗っていた中村高等女学校の、生徒たち十一名が遭難死するという、悲惨な事故でした。
赤鉄橋の建設は、この事故がきっかけだったと言います。橋は、昭和21年(1946)、南海地震で倒壊しましたが、昭和23年(1948)、復旧しています。
なお中村高女は、戦後、県立中村女子高等学校となり、現在は前述の、県立中村中学校高等学校に吸収されています。


須賀神社(通称 祇園さん)
この神社は、明治の神仏分離、廃仏毀釈政策に翻弄されたようです。その様子が、側の案内板に記されていました。
・・(前略)明治元年(1968)の神仏分離令によって牛頭天王は祇園社に、八大龍王は海津見神社(わだつみ神社)に改名されました。さらに廃仏毀釈の際に祇園社は須賀神社と改称されました。祭神は須賀神社が須佐之男命・櫛稲田姫(くしいなだ姫)、海津見神社が海津見神。(後略)


案内板
牛頭天王が祇園社に改名されたのは、牛頭天王が祇園精舎の守護神であるからです。この神を祀った社や地域は、よく「祇園」と呼ばれています。なお牛頭天王は素戔嗚尊と同体視される神で、薬師如来が本地仏とされていました。
八大龍王は、八体の龍王(龍族の王)の総称です。古来、龍は水神として信仰されていますが、仏教では、仏法の守護神、観音菩薩の守護神とされています。


中村のマンホール
マンホールには、藤があしらわれています。おそらく一條家の家紋である「一條藤」なのでしょう。
「なかむらし」と記されていますから、平成17年(2005)よりも前のマンホールです。同年、中村市は西土佐村と合併。四万十市となっています。


中村貝塚
昭和40年(1965)、高知県幡多総合庁舎の新築工事現場で発見されました。
縄文晩期(およそ2500年ほど前)の貝塚で、海で採れる貝殻が多いといいます。つまり、当時の海岸線は、この辺まで来ていたということです。また発掘された土器には、瀬戸内地方や九州と同じものが多く見られると言います。中村が九州と中筋川でつながっていたこと、中筋川は’九州に向かう川’とて、向川と呼ばれていたことは、前にも記したことがあります。
なお後述しますが、出土品は、この後に訪ねる予定の、幡多郷土資料館に展示されています。


幸徳秋水墓
中村生まれで、本名は幸徳傳次郎。因みにこの人も、中村高校(旧制中学)の卒業生です。
平成12年(2000)、中村市議会は幸徳秋水の名誉を回復すべく、次の様な決議を採択しています。
・・幸徳秋水はこの90余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、20世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を諮るべきである。よって中村市議会は郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。  平成12年12月19日


正福寺跡
次の様な説明があります。
・・鎌倉時代初期の承元2年(1208)、法然上人が土佐に流罪となったので、中村では寺を設けて待ったが、上人は讃岐に留まりました。その時設けた寺は龍珠山正福寺と呼ばれ、浄土宗京都知恩院の末寺とされています。(後略)
結局、法然上人が中村に来ることはなかったのですが、入るべき寺が用意されていたとは、さすがです。そう言えば、これより少し手前には、法然寺という寺がありました。この寺は元は真言宗でしたが、法然上人土佐配流を知って改宗。寺名も法然寺と改めた、とのことです。なお、讃岐の法然寺については、→(H23秋1)をご覧ください。


地震碑
昭和21年(1946)12月21日4時19分。昭和南海地震が起きました。
前にも記したことがありますが、私はこの地震を覚えています。母が、寝ている私に被さるようにして、タンスを押さえていました。その姿を見て私は、また眠ってしまったのでしたが。
その後、長い間、私はあれが昭和南海地震とよばれる大地震だったことを、知りませんでした。体験と知識がつながったのは、恥ずかしながら大学1年の頃でした。


中村城跡三の丸跡
中村城は、渡川(四万十川)と後川を外堀代わりにした、 平山城です。築城者が為松氏であることから、別名、為松城とも呼ばれるそうです。現在、城山一帯が「為松公園」とされているのも、そのためです。
為松氏はこの地に盤踞していた豪族ですが、一條氏が中村に入って以降は一條氏に従い、家老として仕えたと言います。


石積み
一條氏滅亡後の中村城の帰趨をたどっておくと、
 天正3年 (1575) 渡川の戦で一條氏が滅亡。長宗我部氏の支配下にはいる。
 慶長5年 (1600) 関ヶ原の戦で長宗我部氏が滅亡。
           山内一豊に土佐一国が与えられる。
 慶長6年 (1601) 一豊の弟・康豊が、20,000石で土佐中村藩を立藩。
 元和元年(1615) 一国一城令により廃城となる。



最初にこれを見たときは、「上げ舟」の展示かと思いました。「上げ舟」は関東平野ではよく見られます。常時は納屋などに吊り下げられていて、いざ出水となると、下ろして避難に使うのです。
しかし、よく見ると二挺櫓です。推力を必要とする舟で底が平らな川舟は、渡り舟!です。おそらく渡川や後川で使われていた、渡り舟なのでしょう。


幡多郷土資料館
郷土資料館は、三重四階の望楼型天守になっています。国宝・犬山城を模しており、最上部の物見櫓部には入母屋屋根が乗り、ぐるりと廻廊・高覧も設えられています。三階部の唐破風も美事です。上からは、360°、絶景を楽しむことが出来ます。
なお郷土資料館は、今は「四万十市郷土博物館」となっていますが、私が訪問した平成21年(2009)は、まだ「幡多郷土博物館」だったと記憶します。


天守からの景色
天守から見た、小京都・中村です。
この写真では見えませんが、街は京都を模して、碁盤の目に区画されています。中村の西を流れる渡川(四万十川)は桂川に、東を流れる後川は、鴨川に擬せられているとのことです。


天守からの景色
後川の上流方向です。鴨川に見立てられた後川の左岸には、「東山」という地名が、今も残っています。この辺りの景色は、→(H28春1)をご覧ください。野中兼山が後川に築いた、麻生堰を見に行ったときのものです。


中村貝塚出土品I
前述のように、中村貝塚出土品が展示されていました。


七星剣
一條神社に伝えられる、七星剣(しちせいけん)のレプリカです。
北斗七星が象嵌されています。北斗七星は、恒常不変の位=天帝を象徴する星。すなわち七星剣は、天帝のみが持つ、破邪、鎮護の剣なのです。


七星剣
材質分析の結果、5C、朝鮮半島で作られたと見られています。
四天王寺、東大寺、法隆寺、正倉院などにのみ伝えられている剣が、幡多にありました。


一條房基の墓
この墓も、街中にあります。墓域を住宅が徐々に浸食していったのでしょう。
房基は、二代・房冬と(前述の)玉姫の子で、三代を継ぎました。知勇に優れた人とされ、実際、高岡郡を支配下に組み込んだり、伊予南部への進出を図るなど、一條氏の勢力を拡大しましたが、戦いに疲れたか、28才で自害しました。(暗殺説もあるようです)。


一條神社
案内板は一條神社の興りを、次の様に記しています。
・・当神社は文明12年(1480)一條家の御廟所として先祖をお祀りしていたことに始まり、慶長12年(1607)一條家遺臣等土地庄屋と相企り一條家の徳を仰ぎ祠を建て霊をお祀り申していたのを、文久2年(1862)にいたり時の幡多郡奉行、中村目代、大庄屋が一体となって一條家の威徳を顕彰し、幡多郡民の総鎮守の神として崇め奉るため社殿の造営一大祭典の執行を幡多郡民に命じた。・・


拝殿
つまり年表化すると、次の様になります。
  応仁2年  (1468)幡多一條氏の祖・教房が下向。
  文明12年 (1480)一條家の御廟所として始まる。
  天正3年   (1575)一條氏、渡川の戦いで滅亡する。
  慶長12年 (1607)一條家遺臣ら、御所跡に祠を建て、霊をお祀りする。
  文久2年  (1862)総鎮守として社殿が造営さる。


境内
祭神は、次の様に記されています。
 若藤男命(わかふじお命) 若藤女命(わかふじめ命)
一條教房並に子孫房家、房冬、房基、兼定、内政及び其の連枝の霊
若藤男命・若藤女命は、教房の父母・一條兼良夫妻の神名です。「内政」は、長宗我部元親に敗れた兼定の嫡男です。幡多一條氏の五代目当主とされていますが、当主としての実質には、疑問が持たれています。


案内板
なお五代目当主・内政には、政親という嫡男がいたとの説があり、その場合、政親は一條氏六代目を襲ったとされています。
この政親が一條神社に祀られていないのは、この人物の実在を確定できる史料がほとんどないからでしょう。さらに、もし実在したとしても、彼はもはや一條氏の人物であるよりは、長宗我部氏の人物と見られていました。政親の「親」は、外祖父・元親からもらい受けた、と考えられるからです。養育も、長宗我部家臣によってなされたとされています。


繁華街
天神橋商店街です。「天神」の名は、一條神社の境内社・天神社から来ているのだと思います。
案内板によると、・・一條氏が京都五条天神を天神山(現市役所)に勧請したと伝えられ、後に藩政時代、山内氏の崇敬篤く、菅原道真公を合祭。昭和27年(1952)、天神山より現在地へ移転したとのことです。祭神は少彦名命と菅原道真公です。


日曜市
日曜市が開かれていました。
前に高知市で見た日曜市→(H14春2)ほどではありませんが、まあまあの人出です。ただ残念ながらこの日曜市は、10年後の平成31年(2019)、44年の歴史に幕を下ろすことになります。


太平寺 
宿への帰途、太平寺に立ち寄りました。
一條氏の3代・房基は、この寺を非常の時の避難場所とすべく、城塞化しました。(撮影に失敗したのですが)石段の両側に、ほんのわずかですが、石垣が写っているのが、ご覧になれますでしょうか。


銃眼
境内の塀に設けられた矢狭間です。塀が折れ曲がっていることにより、「横矢」(矢や鉄砲を敵の側面から撃つこと)が可能となっています。


車窓から
宿で荷物を受け取り、電車に乗りました。窪川まで、1泊2日かけて歩いたところを、たった1時間で引き返します。
黄色い屋根の建物は、たぶん昨日泊まった、民宿白浜です。


岩本寺
窪川に来た以上、岩本寺にはお参りしなければなりません。ふたたび岩本寺を訪れました。
宿は、ちょっと奮発して、美馬旅館を予約しました。春野で知り合った郵便屋さんからおそわった宿です。この郵便屋さんは、お遍路さんなのです。配達中、遍路を見かけると声をかけるのだと言います。


コーヒー
郵便屋さんに教わった、コーヒーの店「淳」に入りました。
岩本寺山門を出て真っ直ぐに歩くと、1~2分のところに在ります。分からなければ、ツタが這っている喫茶店はどこ?と尋ねると、たいてい教えてくれるのだそうです。


三菱ダイヤトーン
ちょっと値打ちもののスピーカーがありました。Mitsubishi と記されているだけで、ダイヤのマークは付いていません。角が直角ではなく、丸まっているのも嬉しい。
いい音を出していますが、マスターによると、「今は少し調子が悪い」とのことでした。コーヒーをお代わりして、久しぶりにゆったりとした時間を過ごしました。


美馬旅館
オフシーズンだからでしょうか、私が占めた部屋は、この二階の全部でした。
風趣ある風呂を楽しみ、食事を楽しみました。箸袋の「一期一会 遍路旅」の文字通りに、同宿の方との会話も、楽しむことが出来ました。


室内
明日は一番電車で影野まで戻り、逆打ちの形で「そえみみず」と「焼坂峠」を越えます。
朝食は、電車に間に合いそうもないので、オニギリを作ってもらうことにしました。

  平成21年(2009)12月21日 第5日目

天気予報
今日も寒いようです。


オニギリ
これは朝食です。


影野駅
影野に着きました。ここを通過したのは4日前です。


けしき
ここからは道を逆にたどります。すこし国道56号を歩き、休憩所の先で右に入ります。


案内
矢印の逆方向に歩くのは、やはり戸惑いがあります。



雪が解け残っています。道は凍ってカチカチです。
この辺の標高は、もう250㍍を超えています。


けしき
寒いけれど、いい気持ちです。
この辺を床鍋と言います。「床鍋」の地名由来には、弘法大師の「独鈷なげ」の転訛であるという説と、この地を開拓した人たちが、出身地の床鍋村を懐かしんで「床鍋」とした、との説があります。


交通標識
「そえみみず遍路道」の入口です。
国道56号を横切った後、ふり返って撮ったので、(つまり北から南方向に向いて撮ったので)、
  左方向 高知 須崎  右方向 宇和島 四万十市(旧中村)
となっています。


人生即遍路
 人生即遍路 山頭火
私が天恢さんに・・人生の晩年がこんなに忙しいものとは、知りませんでした。・・と書き送ったら、天恢さんが、次の様に返してくれました。
・・それは実感できます。山本周五郎さんが座右の銘とされていた「苦しみつつ なお働け 安住を求めるな この世は巡礼である」を共有しましょう。
もちろん私への「督励」として書いてくださったのですが、にもかかわらず愚痴れば、核家族化がはじまって半世紀余。今日日、楽隠居は望めないのですね。凡百の年寄りには住みにくい世の中です。まっ、それを含めてj人生即遍路なのですが。



昔、旅人たちは「かどや やけざか そえみみず」(角谷 焼坂 添え蚯蚓)と、この辺の難所を記憶し、それを恐れ、用心し、越えて行ったと言います。
むろん昔ほどには厳しくはないのでしょうが、私は今日、そのうちの二つ、焼坂と添え蚯蚓を越える予定です。なお角谷は、今はトンネルになっており、かつての道は、藪の中に韜晦しているようです。



高知自動車道の建設で、添え蚯蚓遍路道や焼坂遍路道は、どう変わろうとしているのでしょうか。
前々号でも記しましたが、その変わり様を見てみたいことが、中村から引き返すことにした、狙いの一つでした。



オーイ!呼ぶ声が聞こえました。道が違うと言います。細い路を斜めに切れ上がるところを見過ごし、2メートルほど行き過ぎたところでした。
私が正しい道を進むかどうか、じっと見ていてくれて、案の定間違えたので、すかさず声をかけてくださったのです。


青龍寺へ
この道標は、逆打ち用のものです。裏側は順打ち用で、岩本寺となっていました。ありがたい道標です。


照葉樹林
暗くなってきました。照葉樹林が陽を遮っているのです。


照葉樹林
突然、人と出会いました。イノシシの罠を仕掛けているので、様子を見に来たのだといいます。
血抜きのためのナイフを下げていたりします。
見せてもらいたかったのですが、罠まではまだ遠いとのことで断念しました。


久礼湾
景色を見ながら、立ち話しました。
指さして、あれがクレだといいます。・・えっ、ああ土佐久礼ですね、・・と応じると、
・・他所の人にはクレは呉じゃろうが、わしらにはクレは久礼よ。
・・久礼も大きゅうなったけん。近頃は大正市場に、観光バスが着くわい。まあ、わしらは恥ずかしゅうて行けんようになったけんど。・・と返してくれました。
写真の、二つの小さな島は、 双名島だそうです。


休憩
照葉樹に覆われた路をゆきます。
6年前のことが、いろいろ思い出されました。・・ここでバナナとちらし寿司を半分食べた。・・ここでリストラに遭った青年と出会った。・・彼とは足摺岬まで相前後して歩いたのだった・・などなど。→(H15秋2)


道標
  岩本寺へ16K お大師様が見守っておられます。頑張って下さい! 


休憩
たしかに、クライマーズ・ハイならぬ、ウォーカーズ・ハイになっていることがあります。要注意です。


階段
ここからが、高知自動車道の工事現場です。
長い擬木の階段を下ります。


整備された道
公園の遊歩道といった感じの道です。


工事
巨大な切り通し、とでも言えましょうか。山がVの字み切り崩されています。


高速道
「巨大切り通し」の斜面に急階段がつけられおり、これを下って、高速道の下まで降ります。
降りたら高速道の下をくぐって、今度は、反対側斜面に取りつけられたの階段を上ります。
出会った夫婦遍路がこの階段を、「ヒザ殺し」と呼んでいました。そして、・・ヒザは死ぬ前に笑うんだよね、・・と、ちょっとブラックなジョークを付け加えました。


擬木の階段
天然木は朽ちてゆきますが、擬木は朽ちません。経済的には擬木の方が優れているのでしょう。
しかし朽ちない擬木は土に馴染まず、やがては土から露出してきます。とても歩きにくくなります。補修が大変なのは、よくわかりますが、出来れば天然木でやってほしかったのですが、・・。


休憩所
長い階段の途中に、休憩所がありました。
高速道を眼下に眺めながらの休憩となるのでしょう。


階段
下から眺めた上げた写真です。左に休憩所が写っています。


降り口 
私には「降り口」ですが、順に歩く人にとっては「登り口」です。
手すり、擁壁が新しくなっていました。


平成15年(2003)の写真
6年前は、このような状態でした。


平成27年(2015)の写真
案内板に次の様な一文があります。
・・中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も、明治25年(1892)、大坂谷から七子峠に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重さ先人の足跡を残す遍路道として見直されようとしています。
添蚯蚓へんろ道が標高400㍍の尾根道であるのに比べ、大坂遍路道は、終盤の険しさはあるものの谷間の道なので、おおよそは平坦です。となれば、人・物の流れがそちらに移るのも、自然の成り行きだったのでしょう。


添蚯蚓遍路道の復旧、保全にかかわってきた人たち
廃道となった道を誰が何時、復活させたのかは記していませんが、調べてみると、「へんろ道保存協力会」HPの「沿革」に、
・・2008年(平成20年)高知県中土佐町長より「旧へんろ道(土佐往還そえみみず遍路道)」の復元で感謝状を授与される。・・とありました。
復元時期は、表彰された平成20年よりも前・・現に(前掲写真にあるように)私は平成15年に歩いています。・・ですが、復元の主体が「へんろ道保存協力会」であったのは確かでしょう。


高知自動車道
  コンクリートから人へ
工事現場を見ながら、こんな文句が思い浮かんでいました。(これより3ヶ月前の)平成21年(2009)9月に発足した、民主党政権のキャッチフレーズです。国交大臣は就任早々、八ッ場ダム(やんばダム・群馬県)の建設凍結を発表。世間の関心が大型工事の行方に、大いに向けられていた頃でした。
(前述の)犬と散歩していた女性が示した”重機”への反応も、あるいは、こうした流れの中でのことだったかもしれません。


八ッ場ダム完成図・平成15年(2003)撮影
凍結の発表を聞いたときの、私の感想は、・・これでは、せっかくの「コンクリートから人へ」が、台無しになる。・・でした。
拙速だと思いました。「コンクリートから人へ」に、私は大賛成でしたが、それは拙速にダム建設を凍結することでは、実現しないのです。
・・民主党政権は、田中康夫さんの失敗から学んでいない。
私は、そう考え、忸怩たる思いでいました。


ダム反対・平成15年(2003)撮影
田中さんの失敗とは、彼が長野県知事として実行しようとした、「脱ダム宣言」(平成13年/2001)の失敗です。
田中さんが決めた県営浅川ダムの建設中止は、平成19年(2007)には早くも、次の長野県知事・村井仁さんにより、撤回されていたのです。明らかに失敗していたのです。


ダムに沈んだ吾妻峡
こんな直近の失敗例があるにもかかわらず、それから学ぼうとせず、同じ轍を踏もうとしている、・・私はそう感じ、大いに危惧を抱いていたのでした。
案の定(と言えば僭越ですが)「コンクリートから人へ」は頓挫しました。その後、曲折はありましあが、令和2年(2020)、八ッ場ダムは完成。運用が開始されています。浅川ダムの完成は、平成29年(2017)だったようです、


休憩所
長沢川沿いに下ると、休憩所がありました。1年前、平成20年春に歩いた時、休ませてもらった所です。
私の前日に、四元奈生美さんがここで休憩していたのでした。→(H20春4)当時、彼女の四国遍路の様子を写した「四元奈生美の四国遍路に行ってきマッシュ!」が、NHK・BS「街道てくてく旅」で放映されていたのです。


国道6号へ
これより国道56号を1キロほど歩いて、次なる坂・焼坂遍路道へと向かいます。この道もまた、高知自動車道の影響を受けているはずです。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、焼坂遍路道から仏坂遍路道を経て宇佐に向かい、龍坂を越えて青龍寺に参ります。更新は4月10日の予定です。
遍路の季節がやってきました。今年、私は四国を歩くことができるのでしょうか。もう2019年12月以来、4年半、四国を歩けていません。

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散る桜 残る桜も 散る桜 (天恢)
2024-03-24 09:09:53
 早いもので、今年も3月下旬に入り、いつもなら桜の開花状況が報道される季節です。 暖かい日が続いた2月の「桜開花予想」を発表では、開花トップは東京の3月18日の予想でしたが、見事に外れてしまいました。 ウェザーマップの現在の開花予報では3月25日 東京・横浜・ 熊谷となっていますが、結果はどうでしょうか?

 さて、今回は「楽しく遍路」さんが 平成21(2009)年の厳冬に歩かれた「中村の寺社や史跡の見学 添え蚯蚓遍路道 焼坂峠 へ」までのリライト版をコメントすることにします。 ここも思い出多い遍路箇所ですが、旧中村市は歩き遍路コースを外れていてスルーされる方も多いところです。 天恢の一巡目は交通機関を使っての遍路で中村駅から足摺岬へ向かいましたが、その後の3回は四万十大橋や下田の渡し経由で37番金剛福寺を目指しました。 
2018年3月に観光目的で日本最後の清流・四万十川、思い入れのある沈下橋、1000万本の咲き乱れる菜の花を見るため、旧中村市を訪れました。 ブログにある「まちバス」は8年後「しまんとトロリーバス」「あかめ号」に変わっていましたが、車体とナンバープレートは全く同じで、現在も現役のようです。 「菜の花まつり」の開催中にと旅計画をしたのですが、この年は残念ながら春の訪れが遅く河川敷にはほとんど咲いていませんでした。
 また、沈下橋には特別な思い入れがあって佐野沈下橋と三里沈下橋を見学しました。 作家の原田マハさんの表現を借りれば『嵐のときには、水に沈み、じっと耐える橋。空が晴れ渡れば、再び姿を現す沈下橋』、欄干のない、細長い頼りない姿でも、実は不思議な力を持つ「賢い橋」なのです。
 これは余り賢くない話ですが、この幡多地区には四万十市と四万十町という似た名の自治体がどうしてあるのでしょうか? どちらも2005~6年の平成の大合併で誕生しています。 はたと思い当たることは「土佐のいごっそう」の土地柄、日本最後の清流の「四万十川」のブランド名を双方が譲りたくなかったからでしょう。 それにしても、今から約550年前、前関白一条教房公が応仁の乱を避けてこの地に下向し、京都を模したまちづくりを始めたことから、「土佐の小京都」と呼ばれた「中村」をいとも簡単に愛着もなく捨て去ったことはまっこと残念です。 
 それでも、「中村」という地名は天恢の心に懐かしく宿っています。 もう30年前の現役時代のことですが、職場での宴会が盛んな時代でした。 幹事役をよくやらされたのですが、定刻に参加者が先ず揃うなんて無理で、乾杯による開始にイライラしたものでした。 それが宴会での「中村方式」なるものを知って積年の悩みが一挙に解決しました。 それは、高知県の旧中村市では、宴会に皆が揃わなくても、先に集まった人から「1回目の乾杯」をして飲み始め、全員が揃ったところで 「正式な乾杯」をするやり方でした。 これは呑兵衛だけでなく、参加者から大いに受けました。

 さてさて、今回のタイトルは『散る桜 残る桜も 散る桜』ですが、良寛さんの辞世の句? とも伝えられています。 この春は、桜咲く頃に桜が咲かないので実感が伴いませんが、『今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でも、いつかは必ず散るものだ』 と良寛さんは「限られたいのち」と言い切っています。  
 この歳になると満開の桜より何故か散る桜に惹かれます。 いつも愛読する辰濃和男さんの『四国遍路』に 『七十という年齢はいつ死んでもおかしくない歳だ。 あと何回散る桜を見ることができるのだろうか』 というくだりがあって、八十を過ぎた身としてはいろいろ思うところがあります。 我が身のいのちと照らし合わせて、散るからこそ桜は素晴らしい、人は思い残すことなく死ねれば見事だと心得たいものです。 伊勢物語 ・渚の院にある 『散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき』 で締めることにします。
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〽桜はまだかいな・・ (楽しく遍路)
2024-03-26 17:25:22
天恢さん、コメントありがとうございました。
天恢さんお尋ねの「桜の開花」ですが、生憎です。私がこのコメントを書いている3月26日現在、東京は、まだ開花しておりません。冷たい雨が降っているので、今日は無理でしょう。
ただし明日は晴で、15度くらいの気温が予報されていますから、東京の標本木とやらも、5-6輪くらいなら咲かせてくれるのではないでしょうか。明後日なら、開花は確実でしょう。
さて、天恢さんからいただいた「お題」のうちから、今回は、合併の話を選ばせていただきます。

「四万十市」と「四万十町」とは、たしかに紛らわしいですね。
「四万十」は全国ブランド。互いに譲れなかったということでしょうか。合併の年は「市」の方が1年早く、平成17年(2005)ですが、合併後の名前を公表したのは、「町」の方が早かったと聞いています。「町」からすれば、「市」は抜け駆けをした、ということになるのかもしれません。それかあらぬか、(前々号でも記しましたが)「町」は「四万十源流合衆国」を建国。気炎を吐いています。源流があってこその下流ぞね、ということでしょうか。
とまれ地名は、その土地その土地の歴史や謂われに、深く結びついているものです。長く慣れ親しんできた地名に、住民は愛着を感じ、また誇りさえも感じています。それだけに、その変更には、抵抗感じる人も多いのでしょう。

おそらく「中村」の謂われは、渡川と後川にはさまれた「中の村」なのです。その地形を言い表す、いい名前です。それだけでなく、天恢さんがおっしゃるように、その知名度も、けっこう高かったと思います。「中村市」でもよかったのに、そんな気がしないでもありません。
ただその場合、合併相手である西土佐町の人たちの心情は、どうだったでしょう。「中村市」を残せば、西土佐町の人たちは、「中村市」に吸収合併されたという印象を、強くするかもしれません。対等であるためには、「四万十市」の方が、角が立たないのかもしれないのです。縁結びには、なにより角が立たないことが肝要です。

蛇足ですが「四万十市」は、「四万十町」との間で紛らわしいだけでなく、「四万十市」の内部でも、紛らわしい問題を発生させたようです。
四万十川橋(赤鉄橋)付近の右岸に、現在、「中村四万十町」という町名がありますが、この町名は、元は「四万十町」だったのだそうです。
中流域に「四万十町」が誕生して、このままでは混乱が生じるということで、急遽「中村」を被せ、「中村四万十町」としたのだといいます。
まあ、ここでは「市」がゆずった、ということでしょうか。

ブランド名の取り合いといえば、かつて「満濃町」と「琴平町」の間に、合併話があったのだそうです。もちろんご承知のように、この話は破談となっているのですが、その理由が、(土地の人に聞いた話では)、どちらもが自分の町名に拘ったからなのだそうでした。自分たちのブランドを守ろうとして、譲らなかったのです。
満濃町の人たちにしてみれば、お大師さん所縁の「満濃」が大字に成り下がるなど、我慢ならなかったのかもしれません。琴平町の人たちにしても、なんで金毘羅さんの「琴平」が「満濃」の下に付かなければならんのだ、というわけで、双方ともに、合併談古反対!となったのかもしれません。

なんとか合併に漕ぎ着けたのは、徳島県の甲浦町と野根町でした。しかし、「東に太平洋を望む町」ということで「東洋町」に落着させたものの、役場をどこにこくか等など、ここでも色々と問題は起きたようでした。
かつての「野根大師」が「東洋大師」と寺名を変更した裏には、そんな問題への配慮があったのではないでしょうか。「東洋町」としての一体感形成に少しでも役立とう、そんな考えのもとでの率先改名だったと、私は考えていますが、どうでしょうか。(H20秋)拾い歩き (6)参照。

その他、「四国のへそ」を自認する徳島の池田町が、合併時、「四国中央市」を名乗りたかったが果たせなかったとか、(天恢さんから教わった)室戸市の三高小学校の校名は、三津と高岡の小学校が合併して出来たとか、まだまだ書きたいことはありますが、長くなるので、ここら辺で終わらせていただきます。

明日こそ、サクラサク を期待しましょう。
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