TRUE TRAD JAPAN, SSPX Resistance Austrasia, Frs Chazal Picot

今から465年前(西暦1549年)聖フランシスコ ザビエルが日本に伝えたキリスト教 その尊い教義典礼をまもりつづける

人の死について(四終):善人の死と悪人の死 58/68

2017-07-30 | Pictureカテキズム
絵の説明
この絵には、善人の最後と悪人の最後の有様が書いてある。
まず、善人の最後の有様は上のほうに書いてあって、
善人は安心してベッドの上にふせっていると、司祭はその傍らに立って
十字架を見せながら彼に善いすすめを聞かせている。
守護の天使は彼をなぐさめ、親類はひざまずいて彼のために祈っている。
また、イエズスキリストと聖母マリアとは、天国から彼を招いているのである。
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いと貴き御血の連祷

2017-07-26 | エレイソンコメンツ
7月は、「いと貴き御血の連祷」を唱えましょう。

<いと尊き御血の連祷>

主憐れみ給え ▲キリスト憐れみ給え。

主憐れみ給え

キリスト我らの祈りを聴き給え ▲キリスト我らの祈りを聴きいれ給え。

天主なる御父 ▲我らを憐れみ給え。

天主にして世のあがない主なる御子 ▲我らを憐れみ給え。

天主なる聖霊 ▲我らを憐れみ給え。

唯一の天主なる聖三位 ▲我らを憐れみ給え。

永遠の父の御独り子なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

人となり給える天主の御言葉なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

新たにして永遠なる契約のキリストの御血 ▲我らを救い給え。

御心痛のうちに地にしたたり落ちたるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

鞭打ちによりて多量に流されたるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

茨の冠によりて流されたるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

十字架の上にて溢れいでたるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

我らの救霊の代価なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

罪の赦しの条件なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

聖体の秘跡において心の糧にしてみそぎなるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

憐れみの本流なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

悪魔に打ち勝ち給えるキリストの御血▲我らを救い給え。

殉教者の勇気なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

証聖者の力なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

童貞者を育くむキリストの御血 ▲我らを救い給え。

滅びゆかんとするものの救いなるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

重荷を負える者の支えなるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

悲しむ者の慰めなるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

悔い改むる者の希望なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

死に臨める者の助けなるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

心の平和と柔和との源なるキリストの御血 ▲我らを救い給え。

永遠の生命の保証なるキリストの御血▲我らを救い給え。

煉獄より霊魂を解放するキリストの御血▲我らを救い給え。

全ての栄えと誉れとにいともふさわしきキリストの御血 ▲我らを救い給え。

世の罪を除き給う天主の子羊 ▲主、我らを赦し給え。

世の罪を除き給う天主の子羊 ▲主、我らの祈りを聴きいれ給え。

世の罪を除き給う天主の子羊 ▲我らを憐れみ給え。

主よ御身は貴き御血によりて我らを罪よりあがない給い
▲我らをもって天主の王国をつくり給えり。

祈願

全能永遠なる天主、主は御独り子を世の贖い主となし、その御血を我らの罪 の代償と定め給いたれば、我らをして、救霊の代価なる御血をふさわしき心もて礼拝し、御血のみ力によりて、この世においては もろもろの悪よりのがれしめ、 天においては、御血の永遠の実りにあずかるを得しめ給わんことを、我らの主キリストによりて願い奉る。 アーメン。
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人の死について(四終):死とは 57/68

2017-07-23 | Pictureカテキズム
絵の説明

この絵には、死の有様が書いてある。
これによって、この世のはかなさと、来世の幸福が重大であることを、
よく理解するために、たびたび死のことを思い出さねばならないと、
わたしたちが教えられるのである。

この絵の中央には、カール5世の侍従であったフランシスコ・ボルジアが立っている。
そしてその前には、有名なイザベラ皇后の御死骸が置いてある。
皇后が崩御されて、フランシスコは埋葬地であるグラナダという都市へ
御死骸を送り奉ることとなった。
グラナダに着いてから、当時の例に従い、フランシスコは皇后の御死骸に相違ない
と保証するために、棺のふたを開けた。
ところが、以前は絶世の美人でおられた皇后も、今はすでに二目とみられない
醜い有様となっておられた。
そのうえ、御死骸からは、だれも辛抱できないほどの、臭気を放っていた。
フランシスコはこの有様をご覧になって、はじめて
この世のはかなさを悟り、
よく考えたうえで、辞職してイエズス会に入り、
後日、大聖人となられたのである。

この絵の上部の左右には、いたって壮健な男と女とが、鏡に向かって立っている。
そしてこの二人の頭上に「今日」と記してあり、鏡の中に現れてある死骸の傍には
「明日」と書いてある。
その理由は、今日どれほど壮健であっても、明日は死骸となる可能性があるから、
壮健な人の有様と、死骸の有様とを比較してみて、
この甚だしい違いのあることを、わたしたちに悟らせるためである。
そしてまた、死ぬときに、嫌でも応でも離れなければならない。
肉身上の利益よりも、死後永遠に続く霊魂上の利益を重んじさせるためである。

下部に書いてあるのは、墓地であって、ところどころに十字架もあれば、
石碑もあり、碑銘もあって、骸骨も見えている。
中央の十字架の下には、人間よ、汝は塵なれば塵に帰るべきを記憶せよ
との、聖書の金言が刻銘されている。
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七つの秘跡 (七つの秘跡の概要:洗礼について)

2017-07-16 | Pictureカテキズム
◎絵の説明

18
 この絵の中央にあるのは、御主イエズスがヨルダン川において、
洗者聖ヨハネから洗礼を受け給うところである。
御主が洗礼をうけ給うとき、天が開けて天主の聖霊が
鳩の形をして、御主の御頭の上に降った。
そのとき天から声があり、
「これはわが心にかなう我が愛子なり」 
と仰せられたことは、聖書(マタイ3-17)に記してある。
われわれも、この洗礼を受けるとき、はやり天主の愛子となり
聖霊は聖寵をもって我々の心にくだり、
我々が御主イエズスの兄弟となるのである。

19
絵の下部のほうは、司祭がこどもに洗礼を授けるところである。
天使のもたらした白衣は、霊魂を天主の聖意にかなわしめる
聖寵をあらわしたものである。

20
洗礼をうけて死ぬこどもは、ただちに天国にのぼる。
このことは、絵の上部の右の方に示してある。

21
洗礼は、救霊を得るに必要不可欠であるから
洗礼を受けない者は、自罪のないこどもでも、
天国にのぼることができない。
このことは、絵の上部の左方に、示してある。
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アヴェ・マリアの祈り 天使祝詞 56/68

2017-07-09 | Pictureカテキズム
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主の祈り 55/68

2017-07-02 | Pictureカテキズム
主祷文

◎絵の説明

1 この絵の題は、主祷文(主の祈り)
  すなわち、わが主イエズス・キリストが自ら作り、
  弟子等に教えてくださった祈祷である。

2 主祷文は、短い緒言と7つの願いがある。
  そして、その7つの願いのうちの最初の3つは、
  天主の御栄光に関係し、他の4つは、我等の霊魂と肉身との恵みに
  関係するものである。

3 主祷文の緒言は、「天にましますわれらの父よ」という言葉で、
  一番上の方にある天国の絵をもって示されてある。
  諸天使、諸天使等は、その中央に座し給う天主の御栄光を賛美しているのである。

4 主祷文に天主を指して、「われらの父よ」と申してある理由は、
  われらが、天主の子であるゆえに、愛情と信頼の心をもって
  祈らねばならぬということを、思い出させるためである。

5 そして、「天にまします」と申すのは、
  この父は天地の主であるから、われらが祈るときには、
  恭しくせねばならぬということを知らせるためである。

6 第一の願いは、「願わくは御名のとうとまれんことを」
  という言葉で、一般の人々が、天主を認め、奉仕するように願うのである。

7 この願いは、左の方に、聖ペトロが一人の病者に、
  「ナザレトのイエズス、キリストの御名によって、汝、起きて歩め」
  と申している有様をもって示してある。
  病者はこの言葉がおわるか終わらない間に立ち上がって歩き出した。
  これは、とりもなおさず、聖ペトロが、イエズス・キリストの御名の
  神聖と権力とをあらわして、天主の御名をあがめたのである。

8 第二の願いは、「御国の来たらんことを」ということであるが
  われらは、この言葉をもって、3つのことを願うのである。
  すなわち
  (1)天主がわれらの精神をつかさどってくださること
  (2)死後天国においてご自分の栄光をわれらに分け与えてくださること
  (3)すべての帝王と国民とが、天主とその御子イエズス・キリストに従うことを
  願うのである。

<続く>





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