どうもカレーです。
33歳になりましたので、
総務省統計等の政府見解による“若者”の区分として
残すところあと2年となりました。
そんなことは一切関係なく、例年通りお誕生日ポエムです。
基本的にここ二、三年は、何かを嗤ったり、下げたり、
蔑んだり、貶めたりしない…ようになってるといいな…と思いながら、
できる限り自分の心情に沿ってツイートもブログも打っていて、
たまに積もり積もった恨み辛みは別として、
もし、どうしても反論したかったりそれは違うんじゃないかと思ったり、
なんとなく心が弱って器から感情が溢れそうなときは一言“ポイズン”、
と呟くようにしてます。
そういった負の感情だけではないにしろ、
やっぱり自分の中の器…感情の器…的なものから
何かが溢れかえりそうなとき、
その受け皿として、長ったらしい文章を綴り、
自分の心情を落ち着けるとともに、
その心情はどこまで届くのか試したい…
知らせたい、届けたい、あるいは、焚き付けたい、
等と思うときに、内容を晒したりします。
お誕生日ポエムについては、そうした出来事由来ではなく、
なんとなく普段から抱えている心情を自分語りという迷惑なかたちで文章にしたりするのですが、
上の方に書いたなんとなくのルールは、心情としてはできる限り守りたい。
できてなかったら、ごめんなさい。
少し上に記したような、
“言葉をどこまで届けることができるか”ということについては、
まああまり自分の言葉に遡及力があるとは思わないので置いとくとして。
言葉の指し示す範囲の話です。
というか、実に端的に。
できるだけ使わないようにしている言葉が二つあります。
1つは、“推し”。
もう1つは、“エモい”。
…先に断っておけば、この2つの言葉が嫌いとか、
使ってはいけないとか、そういう話をしたい訳ではなくて。
果たして、自分にその言葉が当てはまるのかどうか、
かねてから違和感があって、使えていない、というお話。
やたらめったらプロレスを観に行っている私ですが…
あえてそのまま使うなら、私は“何推し”に見えるでしょうか?
そも“推し”という概念そのものは、
おそらくはアイドル文化から始まり、
誰かを強く応援することと、その後に“選挙”文化が結びつき…
誰かを、あるいは何かを熱烈に応援することについて、
“推し”概念が定着したものと(雑に)推察します。
“推し”概念には(あくまで個人的な解釈ですが)、
相互性も含まれているように思います。
“推される”人はただただひたすらに“尊く”自らのパフォーマンスを披露し、磨き、提供する一方で、
“推す”側は(選挙文化との結びつきもあるとは思いますが)、
その“尊さ”を受け取りつつ、対価として、その活動をサポートする。
言い換えれば、“互助”なのかもしれません。
…めんどくさい話が過ぎました。
話をちょっと戻します。
果たして私は“誰推し”に見えるでしょうか。
過剰に好きな選手は、います。
しかも、たくさんいます。
でも多分目に見えてわかりやすいのは、
・中島翔子
・里歩
・藤田ミノル
・真琴
(敬称略)
……辺りなのかとは個人的には思います。
でもあくまで、多分第三者から見た場合にそう見えるような気がする、
というだけで、
“推し”と自称できるほどではおそらくないような気もします。
ともすれば、ちゃんと“推し”てる人に対して、
おこがましい感じもしないでもない。
なんで“推し”概念が個人的にフィットしないのだろう、と、
考えたことがあったりなかったりですが、
まず一つには、前述の“相互性”が…なんだろう…
強いて言うならば、得意ではない。
口下手というかコミュがアレというか、
選手は“あちら側”の人なので、ド緊張するので…
みたいな話は前したことがありますね。
まあ、それ。
あともう一つ個人的にフィットしないと思っているのは、
“推し”という概念が含んでいる、個別性。
必ずしもそうではないとは思いますし、
概念は使う人によってもちろん示す範囲は変わるとは思いますが、
にしてもなんとなく、一人あたり、“推し”は一人だったり、
“2推し”という概念があったりして、
少なくとも言葉として指し示す範囲は、
“個”であるように思います。
…まためんどくさい話になりましたね。
“個”として、選手は、プロレスラーは素晴らしい。
でも多分、ボクが一番みたいのは、その素晴らしいプロレスラーたちが、
“誰か”に向ける感情。
そして、その感情が紡いでいく、物語。
誰かと誰か、二人(以上)の関係性があって成り立つ、物語。
例えば先に挙げた選手で言えば、
中島翔子とは坂崎ユカの、
里歩とは真琴との、
藤田ミノルは大家健との、
それぞれの物語が、生き様が、リングに示される感情があったから、
目が離せないでいる。
そしてそれぞれの選手たちが、また別の選手と向かい合うとき、
一体どんな感情で向き合い、どんな物語を紡いでくれるのだろう…
ということを見届けたいがために、
観戦数が増え、見たい選手が増え、見届けたい物語が、増えていく。
そしてまた、許されるならば、全部見たい。
…が、ために、“推し”概念がなんとなく、
自分で使うことに抵抗感とか躊躇いがある、という話でした。
うん。
ただ、強欲なだけですね。
“エモい”がなんとなく使いにくい理由は、
ボクの興味の中心が(今のところ)感情にあるから。
それが、何による、どのような感情なのか、その意味を、
(本人の確認や同意なく)推察したい、読みたい、見たい、見届けたい。
様々な背景があって、様々な感情が生まれるその状況を、
一言で片付けてしまうことが…
まあ、単純に、“もったいない”と思ってしまうという、
趣味嗜好、性格、性癖、性質故です。
で、自分の中の“エモい”が溢れ出た瞬間、
その“もったいない”を閉じ込めるために、
こうして自身の“エモい”感情が何故なのかを、
まとめたり、まとめなかったり。
自分から溢れ出た“エモい”の受け皿として、
このブログがあったりもします。
…最近正直、あまりこのブログを更新しない(ですむ)方が、
安寧に過ごせる人生であるようにも思います。
何故ならば、溢れ出た感情から綴られた文章は、
多くの場合、別れを示す内容のものだったり、
目にした“物語”に対して消化しきれない感情故だったりするため。
書きたくない、は嘘になります。
ただ、書く機会が多くない方が…平和にプロレスが見れる状況にはある。
でも、そんな状況が果たしてプロレスラーにとって幸せなのか…
ということも考えたりし始めると、考えは止むことはありません。
とにかく今ボクがやりたいことは、
あいも変わらず、こんな感じです。
あとはもうなんか文章をちゃんと結論づけて
ひとまとめにするのがめんどくさくなってきたので、
上に名前を挙げてない“過剰に応援しているプロレスラー”の写真を
勝手に貼りまくって華やかに自分の誕生日を飾ろうと思います。
…ああ、もっと挙げたい。
片っ端から挙げたい。
もう無数のプロレスラーが、自身の望むところに辿り着いて欲しい報われてほしい。
みんなみんな
幸せになりやがれ
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