セーヌ川に沿ってベルシー門へ続く道は土曜の午後3時ごろになるとよく混雑する。今日もまた、河岸の上では車が4列になってひしめき合っていた。樽をいっぱいに積んだ大型荷馬車、石炭や資材を運ぶ二輪馬車、干し草やわらを運ぶ軽荷馬車。これらが皆、何とか日曜になる前にパリ市内へ入ろうと、6月の明るく暑い日差しを浴びながら徴税人が廻ってくるのを待っていた。
順番を待つ車の中、まだ門から遠いところに、みすぼらしく風変わりな格好の車があった。ジプシーの幌馬車に似てはいるが、そんなに大層なものではない。簡単なフレームに目の粗い亜麻布を1枚張り、タール紙を屋根にして、そこに小さな車輪を4つつけたという出来だ。
かつて布の色は青だったのだろう。しかし擦り切れ、汚れ、色あせて、今となっては「青かもしれない」と推測するのがやっとだ。布の4面それぞれに言葉が記されているのだが、多くはかすれて消えかけている。判読しようにもこれまた「こんな言葉かもしれない」といった程度で満足しなければならない。ひとつはギリシア文字で、綴りの最初の「φωτογ」を残してほぼ消えている。その下に記してあるのはドイツ語の「graphie」、さらにイタリア語の「FIA」のようだ。最後に一番はっきりとフランス語で「写真」と記してある。ということは他の言葉も写真を意味しているに違いない。つまりこれらの言葉は、旅券のスタンプのように、このみすぼらしく傷んだおんぼろ馬車がフランスに入国してパリの市門まで至る以前に巡った国々を示しているのだ。
ひょっとして、繋がれているロバが長旅の間ずっとこの家馬車を牽いてきたのだろうか?
一見してとてもそうは思えない。なにしろ貧相でやせくたびれている。しかし近づいてじっくり見ると、このひどい衰弱が苦難に耐え続けた結果だとわかる。実際のところ、このロバはたくましく、ヨーロッパで普通に見かけるものより大きくすらりとしている。街道の埃にまみれているものの、腹部から見て取れる銀白色の毛並みと、細い脚を横切り縞模様となって足先まで達する黒い線が特徴となっている。そしてヘトヘトに疲れきっているにもかかわらず高く掲げた頭が意志と好奇心の強さを表している。馬具も家馬車にふさわしく、太いの細いのまちまちで色もさまざまな手当たり次第の糸で継ぎ当てしているのだが、花の咲いた枝やわらの下に隠れている。道すがら刈り集めた枝やわらが、ロバを太陽とハエから保護するためにかぶせてあるのだ。
すぐ脇の歩道の縁で、11か12才くらいの少女が腰をおろし、ロバを見張っていた。
少女の様子は一風変わっていた。ちぐはぐな外見が混血児であることを露骨に示している。プラチナブロンドの髪に琥珀色の肌というとっぴな組み合わせに対し、意外にも顔立ちは繊細かつ優しげで、黒く切れ長の目がアクセントとなっている。まなざしは鋭く真剣で、口元もきつく結んでいる。くつろいで休息に浸っているにもかかわらず、身振りが優雅さと気の強さの両方を表わしているのも、顔の場合と同じだ。すらりとした体の線は、小さくしなやかな肩から、着古して黒から何とも言えない色にあせている粗末な四角い上着の中を通り、ぼろぼろの粗末で大きなスカートの下でしっかり閉じた脚へと続いている。窮乏してこそいるものの、礼儀正しい姿勢からは彼女の誇りがなんら損なわれていないことがわかる。
ロバの目の前には干し草をいっぱいに積んだ大きな馬車があった。これさえなければ見張りも楽なのだが、ロバはしばらくおきに一口の干し草をこっそりと抜き取って、もぐもぐとごちそうにしてしまうのだ。どうやら自分がいけないことをしているのはよくわかっているらしい。
「パリカール、やめなさい。」
ロバは過ちを認めて罪を悔いるかのように頭を垂れた。しかし、目を瞬かせ耳を震わせながら干し草を食べてしまうと、すぐにふたたび干し草をねらおうとする。熱心なのは空腹だからに違いない。
ロバに4・5回目の雷を落としてしばらくすると、家馬車から少女を呼ぶ声がした。
「ペリーヌ。」
少女はすぐに立ち上がり、カーテンを上げて家馬車に乗り込んだ。床に張りついたように思えるほど薄いマットレスの上に女性が横たわっていた。
「なあに、お母さん?」
「パリカールは一体何をしているの?」
「前の馬車の干し草を食べるんです。」
「ちゃんと抑えなければいけないわ。」
「おなかがすいているのよ。」
「空腹だからといって他人様のものを取る理由にはなりません。その馬車の御者に怒られたときに、なんと言って答えるつもりなのかしら?」
「もっと注意して見張ります。」
「まだパリへ入らないの?」
「徴税人を待たなければならなくて。」
「これからしばらくかかりそう?」
「お母さん、前よりつらいの?」
「大丈夫。風通しが悪くて息苦しいだけ。なんでもないのよ。」そう言う声はあえぎ、かすれていて、はっきりとしない。
この言葉は母として娘を安心させようと発したものだった。実のところ彼女は痛ましい病状で、息も絶え絶え、気力も生気も尽きている。26・7才にならないにも関わらず、末期的な衰弱状態にあるのだ。しかしこの病状にあっても、彼女の顔立ちからは際だった美貌のあとがうかがえる。娘とよく似て、端正な瓜実型の面立ちに優しげで奥深い目をしていた。
「なにかお持ちしましょうか?」とペリーヌは尋ねた。
「何を?」
「売店があるの。レモンを売っているから1個買ってきます。すぐ戻るわ。」
「だめよ。お金は残しておいて。もうあまりないのよ。パリカールのそばに戻って、干し草を取るのを抑えていて。」
「うまくいかないわ。」
「とにかく目の前で見張ってなさい。」
ペリーヌはパリカールの前に戻った。馬車の列が前へ進むと、ロバをしっかりと捕まえて前の馬車との間隔を広げ、干し草に届かないようにした。
はじめロバは逆らって前へ押し進もうとした。しかし静かに話しかけ、優しくさすり、鼻にキスしてやると、長い耳を垂らして大いに満足したことを示し、喜んでその場でおとなしくなった。
もうパリカールは行儀良くなったので、ペリーヌはあたりを眺めて楽しめるようになった。川面では、遊覧船とタグボートが行き交っている。はしけの上では、いくつもの回転式クレーンが鋼鉄製の長い腕を伸ばして荷をつかみ、石や砂や石炭なら大型馬車へ流し込み、樽なら埠頭に沿って並べている。循環鉄道の高架橋では、列車が走っている。その高架橋のアーチの向こうにパリの眺めが広がっているのだが、見えるというより薄暗い煙にかすれてぼんやりとしている。最後に間近へと目を戻すと、徴税所の係員が働いている。馬車に積まれた麦わらに長いフォークを突き通したり、荷車に積まれた樽の上によじ登り、錐の一撃で穴をうがち、ほとばしるワインを小さな銀のカップで受けて、数滴味わうや否やすぐさま吐き出したりしている。
あらゆるものが珍しく目新しいものばかりで、とてもおもしろく思えたので、いつのまにか時は過ぎていった。
ピエロのような格好をした12才くらいの少年が、もう10分以上前からペリーヌの周りをうろうろしていた。おそらく、馬車を並べている旅芸人の一座のものなのだろう。少女がなかなか気づいてくれないので、しかたなく彼は自分から話しかけてみることにした。
「こりゃ見事なロバだなあ。」
ペリーヌは何も言わなかった。
「こいつはフランスのロバかな?だったらびっくり仰天だぜ。」
ペリーヌは少年に目を向けて、親切そうな様子を見て取ったので、ちゃんと返事をすることにした。
「このロバはギリシアから来たのよ。」
「ギリシアから!」
「だから名前をパリカールって言うの。」
「ああ、なるほどね!」
少年はにこにことうなずいたが、ギリシアから来たロバがなぜパリカールと呼ばれるのか、理解しているかどうかはあやしいものだった。
「ギリシアって遠いのかな?」と彼は尋ねた。
「とても遠いわ。」
「遠いって言うと……中国よりも?」
「いいえ、でもとても遠いところよ。」
「じゃあキミはギリシアから来たんだね。」
「もっとずっと遠いわ。」
「中国?」
「ううん、パリカールはギリシアから連れてきたのだけど。」
「アンヴァリッドのお祭りに行くのかな?」
「いいえ。」
「どこに行くの?」
「パリ市内に。」
「どこにこの家馬車を停めるつもり?」
「オセールで人に聞いたら、市壁沿いの大通りにはただで使える場所があるって。」
少年は自分の太ももをパチパチと手でたたいて、首をすくめた。
「市壁沿いの大通り。おやおや、あそこかよ。」
「空いてないの?」
「場所ならあるよ。」
「じゃあ、いいでしょう?」
「きみら向きじゃないね。あそこはちんぴらのたまり場なんだ。きみの家馬車には誰か、頑丈で、ナイフをふるうのを恐れないような男はいる?つまり切った張ったできるような人は。」
「お母さんとわたしだけよ。それにお母さんは病気なの。」
「このロバは大切なんだよね?」
「もちろん。」
「でも明日にはロバが盗まれちまう。それが手始めさ。他にもいろんな目に逢うだろうけど、どれもろくなことじゃないね。この牛の胃袋が保証するよ。」
「それって本当なの?」
「そりゃ本当だともさ。きみって全然パリに来たことないんだね?」
「ええ。」
「見ただけでわかるよ。オセールの連中はしようもないまぬけだな。あそこに車を停めれるなんて、きみに言うなんて。塩粒じいさんのところへは行かないかい?」
「塩粒じいさんって、わたし知らないわ。」
「ギヨ園のぬしさ。あそこは柵で囲われてて夜には締め切っちまうから、何も怖いことなんかない。夜中に忍び込もうとするやつには、塩粒じいさんが構わず銃で一発食らわせるって、みんな知ってるし。」
「高いのよね?」
「冬はね。みんなパリに戻ってくるから。でもこの時期なら、週に40スウより多く払えとは言わないはずさ。それとロバはそこらに生えてるものを好きに食える。とりわけアザミが好きならね。」
「もちろんパリカールの好物よ。」
「じゃあ気に入るんじゃない。それに塩粒じいさんは悪いやつじゃないし。」
「その『塩粒』って本名なの?」
「いつものどを渇かして酒を欲しがるから、みんなそう呼ぶんだ。元は屑屋でぼろ切れを商って大もうけしたんだけど、事故で腕を一本つぶしてからは、片腕でゴミ箱をあさるのは都合が悪いし、土地を貸すようになったんだ。冬場は家馬車を停める人に、夏場は誰でも手当たり次第にね。他にも商売してるよ。子犬を売るとか。」
「ここからギヨ園までは遠いのかしら?」
「いや、シャロンヌだから。でもまあシャロンヌって言ってもわかんないよね?」
「わたし、パリに来たことがないの。」
「えーとね、あっちだ。」
彼は腕を前に伸ばして北の方角を指した。
「壁を通り抜けたらすぐに右に折れて、市壁に沿って大通りを30分弱行くんだ。ヴァンセンヌ大通り、すごく広い通りなんだけど、これを横切ったら左に折れて、そこらの人に聞いてみな。誰でもギヨ園を知ってるから。」
「ありがとう。お母さんに話してみるわ。もしよければパリカールを少し見ててもらえないかしら。すぐにでも話したいの。」
「構わないよ。ギリシア語を教わっているさ。」
「干し草を盗ませないようにお願いね。」
ペリーヌは家馬車に入り、若いピエロから聞いた話をお母さんに伝えた。
「そういうことなら迷うことはありません。シャロンヌに行くべきです。でもペリーヌ、道はわかるの?わたしたちはこれからパリに入るのよ。」
「とてもわかりやすいところみたいなの。」
ペリーヌは外へ出ようとしたが、思い直して枕元に戻ると、母に向かって身をかがめた。
「幌の上の方に『マロクール工場』、下の方に『ビルフラン・パンダボアヌ』と書いてある馬車が何台もあるのよ。河岸に並んだワイン樽を覆う布にも同じことが書いてあるわ。」
「何が書いてあろうと、別に驚くようなことではないわ。」
「でも、同じ名前が繰り返し目にとまるのですもの。」
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ベルシー(Bercy)門
パリ市を囲む市壁を抜けて、市内へ入るための門(市門)の一つ。ベルシーは市中心部から見て南東の、ちょうどセーヌ川がパリ市内へ流れ込むところに位置している。
この作品の当時、パリ市内に入る物品に対する入市税の徴税所が市門に設けられている。
琥珀色
黄色のうち、半透明で赤みがかったもの。ペリーヌが備える東洋人的な身体特徴のひとつ。
パリカール(Palikare)
対オスマン・トルコ独立戦争(1821-1828)におけるギリシア山岳地の民兵を指す言葉。「頑固なギリシア人」という意味もある。つまり「山道に慣れた、頑健で頑固なギリシア生まれのロバ」ということか。
アンヴァリッド(Invalides)
廃兵院。退役軍人の療養所として建てられた、パリ市内にある有名な施設。この後のやり取りからすると、ペリーヌは知らなかったのかも。単に"invalides"だと「傷病者」かな?病人を抱えたペリーヌにはカチンとくる言葉なのかもしれない。
でも「アンヴァリッドのお祭り」とは何でしょう?情報乞う。
オセール(Auxerre)
パリの南東120km程にある都市。
牛の胃袋(Gras Double)
牛の反すう胃のこと。みの。なんでこんな通り名なのかは不明。
塩粒じいさん(Grain de Sel)
「塩辛じいさん」とか訳すとグッドな気がするけど、フランス語の"sel"に日本語の「塩辛い(けち)」という意味はなさそうなので。
お酒に縁がないせいか、名前の由来を聞いてもよくわかりません辞書には「塩分を取るとのどが渇く。酒が欲しくなる。」みたいな例文があったけど……酒か?酒飲みの生態に詳しい人、Gras Doubleの説明で通じます?
ぼろきれ
ぼろきれなんかにそんな需要があるのか、儲かるのかと思いますよね……。
この当時はぼろきれを紙の原料にしていたようです。古紙を大量に収集しているような描写もあるので、廃品回収とりわけ古紙回収を生業としていたのでしょう。
[
ことはルクリが決めたとおりうまく運んだ。
その後の8日間で、ペリーヌはシャンティイの森を囲むすべての村々、グヴィユ、サン・マクシマン、サン・フィルマン、モン・レヴェック、シァマンをくまなく巡った。最後にクレイユに着いたとき、ルクリはペリーヌを手元に引き取ろうと言い出した。
「あんたの声は廃品回収をやるのにとびきりだよ。これからも手伝ってくれないかい?きっとうまくいくから。いい暮らしができるよ。」
「ありがとうございます。でも、そうはいかないんです。」
この理由だけではペリーヌが納得しないのを見てとり、ルクリは別の理由を持ち出した。
「パリカールと別れなくていいし。」
これには確かに効果があり、ペリーヌは動揺した様子を示した。しかし結局は譲らなかった。
「親戚のところへ行かなければなりませんから。」
「その親戚はパリカールみたいに命を救ってくれたかい?」
「行かないと、お母さんを裏切ることになります。」
「じゃあそうしなさい。でもね、後からこの機会を惜しむようなことになっても、それは自分だけの責任だよ。」
「ご親切は決して忘れませんわ。」
話を断られてもルクリは腹を立てることなく、予定通りアミアン近郊まで馬車でゆく卵屋に話をつけてくれた。ありがたいことに、ペリーヌは一日中、幌の下の麦わらの上に寝たまま、速歩で進む2頭のおとなしい馬に身体を揺られていればよかった。おかげで、現在の快適さを過去のつらさと比較して考えるとますますもって長く思えるこの道のりで、自らの足を疲れさせることはなかった。エサントーで、ペリーヌは納屋に泊まり、そして翌日の日曜日、彼女はアイ駅の窓口に100スウ銀貨を差し出した。今回は拒否されることも取り上げられることもなく、駅員はペリーヌにピキニ行の切符と2フラン75サンチームのお釣りを渡してくれた。ピキニについたのは11時、明るく暑い朝だった。しかしこの暑さはシャンティイの森の暑さとは異なり心地よいものだったし、彼女自身もあのときの惨めな娘ではなかった。
ルクリと過ごした数日間、ペリーヌはスカートと上着を繕ったり継ぎ当てしたり、ボロ切れからネッカチーフをこしらえたり、下着を洗ったり、靴を磨いたりした。アイでは列車の出発を待つ間に川の流れで念入りに身なりを整えた。そして今、ペリーヌはさっぱりとして、元気はつらつと列車を降りたのだった。
しかし、さっぱりしたことよりもポケットで鳴る55スウよりもさらに彼女の気力を高めていたのは、これまでの試練から得た自信だった。あきらめず最後までしんぼう強く努力した結果、試練に打ち勝ったのだから、残された打ち破るべき困難にも打ち勝つことができると、期待し確信してよいのではないだろうか?最も難しいことが成し遂げられてないとしても、少なくともなにがしか、正確に言えばさらにつらく危険なことが実際に成し遂げられたではないか。
駅を出ると、ペリーヌは水門の上を渡り、ポプラと柳の生えた緑の草原を通って、今は元気に前へ進んだ。草原の所々には沼があって、どの沼にも浮きに向かって身を乗り出した釣り人がいるのが見える。周囲に置かれた道具一式から、これらの人々が都会から逃れてきたアマチュアの釣り愛好家だとすぐにわかる。湿地のあとには泥炭坑が続いていた。赤褐色の草の上には、白いアルファベットや数字で印をつけられた小さな黒い立方体が、幾何学的に積み重ねられて並んでいる。この山は乾かすために置かれた泥炭だ。
お父さんはときおりこれらの泥炭坑や沼の話をしてくれた。その話によると、これらの大きな沼は泥炭が運び出されたあとに水がたまったソム川流域に独特な地形ということだった。同様にして、ペリーヌは暑さや寒さをいとわない熱心な釣り人のことも知っていた。だから彼女が通り抜けるのは未知の土地でなく、よくわかる身近な土地だった。自分の目で見ることこそはじめてだが、川の流れに沿って並ぶ地肌がむき出しのつぶれたような丘のことも、丘の頂きを飾り、今日のように穏やかな天候でもこの土地まで感じられる海風の力で回る風車のことも、彼女は知っていた。
最初に着いた赤い瓦の家が並ぶ村のことも、ペリーヌにはそれとわかった。サン・ピポアだ。ここにはマロクールの工場に属する織物とロープの工場がある。村に入る前に、ペリーヌは鉄道の踏切を横切った。この鉄道は、エルシウ、バクール、フレクセール、サン・ピポアそしてビルフラン・パンダボアヌの工場の中心地マロクールといったさまざまな村を結んだあと、ブーローニュの幹線へと合流するのだ。ポプラの木が見え隠れする村の様子を眺めると、村の教会のスレートでできた鐘楼と工場の煉瓦でできた高い煙突が見えた。今日は日曜日なので、煙突から立ち上る煙は見えない。
教会の前を通ると日曜日のミサを終えた人たちが出てきた。すれ違う人々のおしゃべりに耳を傾けていると、お父さんが彼女をおもしろがらせようとまねしていた、言葉を長く引っ張って歌うようにのんびりと話すピカルディなまりを今でも聞き分けることができた。
サン・ピポアからマロクールへは泥炭坑にはさまれた柳の並木道だ。道はまっすぐにというよりは、なるべくしっかりした地面を選びながら通っている。だから、ここを通る人には前後のわずかな範囲しか見えない。そんな道でペリーヌは、腕にかけた重たいカゴに押しつぶされるようにゆっくりと歩いている少女に追いついた。
取り戻し始めた自信に後押しされ、ペリーヌは思い切ってその少女に声をかけた。
「これはマロクールに行く道ですよね。」
「ええ、まっすぐに行くわ。」
「まあ、まっすぐに?」ペリーヌは微笑んで言った。「ここはあまりそれらしくないけど。」
「道がわからないの?わたしもマロクールへ行くところだから、ついてくるといいわ。」
「ありがとう。よければカゴを運ぶのを手伝いましょうか。」
「そう言ってもらえると助かるわ。なにしろすごく重くて。」
少女はカゴを地面に下ろし、ほっと安堵のため息をついた。
「あなたはマロクールのひと?」と少女は尋ねた。
「いいえ。あなたは?」
「わたしはそうよ。」
「工場で働いているの?」
「ええ、みんなと同じにね。わたしは糸巻き機で働いてるの。」
「それはどういうもの?」
「ちょっと、糸巻き機を知らないの?エプロワールを!あなた一体どこから来たの?」
「パリから。」
「パリに糸巻き機を知らない人がいるなんて、変なの。つまり、織機のために糸を準備する機械よ。」
「いい日当が出るの?」
「10スウよ。」
「難しいのかしら。」
「そんなでもないけど。でも目は離せないし、のんびりとしてはいられないわ。あなた、工場で働きたいの?」
「ええ、採用してもらえるなら。」
「もちろん採用されるわよ。誰でも採用するんだもの。そうでもしなきゃ工場で働く7000人もの工員は見つからないのよ。仕事が欲しければ明日の朝6時に工場の門のところへ行くといいわ。さて、無駄話はこのくらいにしましょ。遅れるといけないから。」
少女はカゴの一方の取っ手を、ペリーヌはもう一方のを手に取った。そして足並み揃えて道の真ん中を歩き始めた。
ペリーヌには知っておきたいことがあった。この状況は、それを聞き出すのにあまりに都合よく、このまま見過ごすわけにはいかなかった。けれど知りたいことをこの少女にあからさまに尋ねることはできない。目的を悟られないようによく包み隠して、特に意図するところもなく適当にしゃべっているふりをしながら、うまく聞き出さねばならなかった。
「あなたはマロクールの生まれなの?」
「もちろん、わたしはマロクール生まれよ。お母さんもそうだったの。お父さんはピキニだったわ。」
「二人とも亡くなったの?」
「ええ。わたしはおばあさんと暮らしてるの。おばあさんは雑貨や食料品の店をやっていて、フランソワーズ夫人と言えば……。」
「ああ、フランソワーズ夫人!」
「知ってるの?」
「いえ……、言ってみただけ。フランソワーズ夫人ね。」
「この辺ではよく知られてるのよ。お店をやってるし、それにエドモン・パンダボアヌ様の乳母だったから。ビルフラン・パンダボアヌ様に何かお願いがあるとき、みんなおばあさんに仲介を頼むのよ。」
「おばあさんはみんなのお願いを聞いてもらえるの?」
「聞いてもらえたり、聞いてもらえなかったりね。ビルフラン様は気難しいから。」
「乳母だったのなら、どうしてエドモン・パンダボアヌ様に取り次がないの?」
「エドモン・パンダボアヌ様に!エドモン様は私が生まれる前にこの土地を離れて、以来帰ってこないのよ。お父さまと仲違いして。仕事でインドへジュートを買いにやられたっきり。といってもあなたは糸巻き機を知らないんじゃ、ジュートもなんだかわかんないわよねえ。」
「草?」
「麻よ。インドで採れる大麻の一種なの。それをマロクールの工場で紡いで、織って、染めているわけ。ビルフラン様はこのジュートで財産を築いたの。かのビルフラン様と言えど、昔からお金持ちだったんじゃないのよ。はじめは自分で荷車を曳いて糸を運んでは、村の人たちが自分の家の織機で織った布を持ち帰ってたんですって。ビルフラン様は今でもこういうことを隠さないから、わたしも話すんだけど。」
少女は話をいったん止めた。
「持つ腕をかえない?」
「そうしましょうか、ええと……あなたの名前は?」
「ロザリーよ。」
「そうしましょうか、ロザリーさん。」
「そういうあなたの名前は?」
ペリーヌは本名を言いたくなかったので、適当に答えた。
「オーレリーよ。」
「じゃあ、持つ腕をかえましょう、オーレリーさん。」
少し休むと二人は快調に歩みを続けた。ペリーヌはすぐに会話を自分が興味を持った話題へ戻した。
「エドモン・パンダボアヌ様はお父さまと仲違いしてここを離れてると言ってたけど。」
「それからエドモン様はインドに行ったのだけど、そこでさらに大きく仲がこじれたのよ。エドモン様がお父さまに断りなくインドの女の子と結婚しちゃったものだから。ビルフラン様がピカルディーでも一番の家柄のお嬢様との結婚を用意していたのに。今のビルフラン様の大邸宅だって、その結婚祝いに何百万フランもかけて建てたのよ。ところがこれだけのものにもかかわらず、エドモン様はあっちの奥さんを捨ててこっちのお嬢様と結婚しようとはしなかったのね。すっかり仲違いしちゃって、今ではエドモン様の生死すらわからないの。死んだという人もいれば生きているという人もいるけど、なんとも言えないわ。なにしろもう何年も便りがないから……ないといううわさなんだけど。だってビルフラン様は誰にもエドモン様の話をしないのよ。甥っ子たちも話さないし。」
「ビルフラン様には甥御さんがいるの?」
「テオドール・パンダボアヌ様はお兄様の息子さん。カジミール・ブルトヌー様はお姉様の息子さん。ビルフラン様を助けて一緒に働いているわ。エドモン様が帰ってこなければ、ビルフラン様の財産も工場も甥っ子たちのものね。」
「おもしろい話ね。」
「でもエドモン様が帰ってこないのは不幸なことよ。」
「お父さまにとって?」
「それにわたしたちにとってもね。だって甥っ子たちが経営を握ったら、あんなに大勢の生活がかかっている工場がどうなっちゃうかわかんないのよ。みんなそういってるわ。日曜日にお店を手伝っていると、そんなことがいろいろ耳に入るの。」
「甥御さんたちについて?」
「そう、甥っ子たちとか、ほかの人たちのこともね。でもあたしたちにはどうでもいい話ばかり。」
「そうよね。」
ペリーヌはあまりしつこくしたくなかったので、そのまましばらく黙っていた。ロザリーはおしゃべり好きなようだから、おそらく待つほどのこともなくまた話しかけてくるだろう。果たしてその時が来た。
「あなたのご両親も、やっぱりマロクールにくるの?」とロザリーは言った。
「もう両親はいないの。」
「お父さんもお母さんも?」
「そうなの。」
「わたしと似てるわね。でもわたしにはおばあさんがいるわ。おばあさんは優しいのよ。おじさんとおばさんがいなければもっと優しくしてくれるんだけど。そうすればわたしも工場で働かないで、お店にいられるのにね。だけどおばあさんはおばさんたちと仲違いしたくないから、なんでもやりたいようにするわけじゃないの。すると、あなたはまったく一人きりなのね。」
「そうよ。」
「自分の考えで、パリからマロクールまで来たの?」
「マロクールで仕事が見つかるんじゃないかという話だったので、このまま親類のところへ行くより、マロクールを見てみようと思ったの。なにしろ長いことやり取りのない相手だから、どう迎えられるかわからないでしょう。」
「まったくそうだわ。優しい人かもしれないし、意地悪な人かもしれないし。」
「そういうこと。」
「ねえ、心配いらないわ。工場で仕事が見つかるもの。10スウの日当は多いと言えないけど、それでも暮らしの糧にはなるわ。それに成績次第で22スウまで出るのよ。ちょっと聞きたいのだけど。よければ答えて。いやなら答えなくていいのよ。あなたお金を持ってる?」
「ほんの少しだけど。」
「じゃあ、もしフランソワズおばさんのとこに泊まるのでよければ、週に28スウよ。前払いで。」
「28スウなら払えるわ。」
「もちろん、この値段だとあなたひとりのためのすてきなお部屋ってわけじゃないの。6人でひと部屋よ。だけどとにかくベッドもシーツも毛布もあるから、何も持ってなくていいのよ。」
「ありがとう。泊まらせてもらうわ。」
「おばあさんの宿舎には週に28スウの人たちが泊まる部屋しかないのだけど、うちには別に新しい建物もあるのよ。こっちはきれいな部屋で、工場の社員の人たちが下宿してるの。建築士のファブリさんに、会計局長のモンブルーさんに、外国通信担当のベンディットさん。この人と話すときは、いつもちゃんとベンディットさんって呼ばなきゃ駄目よ。イギリス人だから、バンディットって言うと『強盗』って侮辱されたと思って怒っちゃうから。」
「気をつけるわ。それにわたし英語がわかるのよ。」
「あなたって英語がわかるの?」
「お母さんが英国人だったの。」
「なるほどね。じゃあ、きっとベンディットさん、あなたが話しかけたらずいぶん喜ぶわ。他にもいろんな言葉をしゃべれるならもう大喜びじゃないかしら。なにしろ日曜日の最大のお楽しみが、25通りの言葉で印刷された『主の祈り』を読むことなんだもんね。読み終えるとまた最初から、それも終えるとまた最初から読み返すのよ。日曜日はいつもそんな感じなの。一応いい人なんだけど。」
工員(ouvrier) または労働者・職工。英語のworker。工場で生産に直接携わる人。
社員(employe)
1990年代日本で普通に言う「社員」より、ずっとせまい範囲を指す言葉。パンダボアヌ工場に勤める7000人の「工員」はここで言う「社員」ではない。
ここでは経営者を補助して経営・企画などに携わるのが「社員」、「社員」を補助するのが「雇員」、「雇員」のもとで生産に直接携わるのが「工員」といったところか(雇員は物語に登場しないかもしれない)。
道の両わきを囲む高い木立の合間に、少し前から建物が見え隠れするようになった。右手の丘の斜面にはスレートに覆われた鐘楼が、左手にはトタンの巨大なぎざぎざ屋根が、少し先にはれんがでできた高い煙突がいくつか見える。
「もうそろそろマロクールね。」とロザリーが言った。「すぐにビルフラン様の大邸宅が見えるわよ。それに工場も。村の民家は木に隠れてるから、もっと高いところからじゃないと見えないわ。川の向こう岸は、教会と共同墓地よ。」
実際、柳の並木が切り倒されて切り株しかないところに近づくと、堂々たる大邸宅がその全容を現した。三つの大きな建物の正面は白い石や赤いれんがでできていて、屋根は高く、煙突はすらりとしている。建物の周りは広大な芝生と灌木の並木に囲まれている。芝生は下って草原へとつながり、草原は延々とさらに遠く、丘の形にしたがって上下しながら続いている。
ペリーヌは驚いて歩みを緩め、ロザリーはそのまま歩き続けたので、二人は足並みを乱して地面にカゴを下ろしてしまった。
「どう?きれいでしょう?」とロザリーは言った。
「すごいわ。」
「でね、ビルフラン様はあの中でたったひとりで暮らしてるのよ。といっても12人の召し使いが一緒だけど。召し使いのほかに庭師や馬丁といった人もいて、その人たちは庭園の端のほうに見える別棟に住んでるわ。村との出入り口のところ、あそこに工場のより低くて細い煙突が2本あるでしょう。あれは照明用の発電機と、暖房用のボイラーの煙突。温室みたいにあったまるのよ。建物の中もきれいよ。至る所金ピカだし。甥っ子たちもあそこでビルフラン様と暮らしたいんだけど、一人で暮らして一人で食事をするほうが好きだからって、ビルフラン様は許さなんだって話よ。まあ確かに、家を貸してはいるんだけど。一人には工場の出口にあるビルフラン様の昔の家を、もう一人にはその隣をね。これで事務所までぐっと近くなったってわけ。困っちゃうのは、それでもたまに遅刻するってことよ。工場主の、65歳で、のんびり暮らせる叔父様が、夏でも冬でも晴れでも雨でもいつもちゃんと出社されるのに。あ、日曜日は別よ。日曜日はもちろんお休みだから。ビルフラン様も誰も彼もね。だから今日は見たとおり煙突から煙が出ていないの。」
カゴを持って二人がまた道を進み始めると、間もなく工場の群れを見渡せるようになった。しかしペリーヌの目には、ただごみごみした建物があるだけとしか見えない。新しいのや古いの、スレートぶきのやかわらのぶきの、これらがみな一本の、他を圧倒する巨大な煙突の周りに集まっていた。煙突は全体に灰色で、一番先だけすすけて黒くなっている。
さらに進んで、やせたリンゴの木が植えられている広い道の、ぽつりぽつりと家並みの始まっているところへたどり着くと、ペリーヌの関心は周囲の光景に引き寄せられた。これが、これまでいろいろと話に聞いてきた村だ。
特にペリーヌが驚いたのは、着飾った多くの男性・女性・子供たちが、開け放たれた窓を通して様子の伺える天井の低い広間の中や、建物の周りに集まっていることだった。都会の人口密集地でも、これほど混雑することはないだろう。外にいる人たちは消沈して、なすすべもなくひまそうに話していた。中にいる人たちはいろいろな飲み物、色からしてシードル・コーヒー・ブランデーといったものを飲み、グラスやカップでテーブルをたたきながら、言い争うような声を上げていた。
「こんなに飲んでいるなんて!」とペリーヌは言った。
「これがもし2週間分の給料の出た次の日曜だったら、全然様子が違ってたわね。真っ昼間からもう飲めなくなった人がいっぱいいるのに会うところだったのよ。」
二人が前を通りすぎる家の多くは、みな同じようにヘンだった。使い古されていたり、粘土の下の木枠がむき出しだったり、土でできたりしているようなひどい家であっても、そのほとんどが少なくとも玄関や窓にペンキを塗って気取った姿を装っていて、それが看板のように人目をひいているのだ。実際、これは一種の看板だった。こうした家では工員に部屋を貸していて、ちゃんと修繕してなくとも、このペンキでもって小ぎれいな家でございますと請け負っているわけなのだ。ちょっと中を見ればすぐに嘘だとわかるけれども。
「着いたわ。」空いてる手で、通りから少し離れたところを指しながら、ロザリーが言った。きれいに刈り込まれた生け垣の向こうに、小さなれんが造りの家があった。「ここからは見えないけど、中庭の奥にいくつか建物があって、工員に貸してるの。こっちの建物はお店。小間物屋よ。それと2階に食事付の貸部屋があるの。」
生け垣には木の門があって、リンゴの木の植えられた小さな中庭に通じていた。そして粗い砂利を敷きつめた小径が、中庭を通って家へと続いている。
二人がこの小径を歩き始めるやいなや、まだ若い女性が玄関のところに現れて叫んだ。
「急ぎなさい、のろまなんだから。ピキニに行く用事に何時間かけてるの。あんまりサボるんじゃないわよ。」
「ゼノビおばさんよ。」とロザリーはささやいた。「気難しくって。」
「何をこそこそ言ってんの?」
「カゴを持つのを手伝ってくれなかったら、まだついてなかったわって言ったのよ。」
「口答えするんじゃありません。怠け者。」
彼女がかん高い声でこう言ったとき、太った婦人が廊下に現れた。
「今度は何を言い合ってるんだい。」と彼女は尋ねた。
「あのね、おばあちゃん。ゼノビおばさんは私が遅いって言うのよ。このカゴ重いのに。」
「よしよし。」とおばあさんは穏やかに言った。「カゴを置いて。かまどでシチューを温めてあるから、食事にしなさい。」
「中庭で待っててね。」とロザリーはペリーヌに言った。「すぐ戻るから、一緒に食事しましょ。自分のパンを買ってきてね。パン屋は左に3件目よ。急いで。」
ペリーヌが戻ると、ロザリーはリンゴの木の陰に置かれたテーブルに腰を据えていた。テーブル上にはポテトシチューのよそわれた皿が2枚置かれていた。
「座って。」とロザリーは言った。「こっちがあなたの分ね。」
「でも……。」
「遠慮しないで。おばあちゃんにお願いしたら、いいって言ってたから。」
そういうことなら遠慮しなくてもよいと思い、ペリーヌはロザリーと向かい合って腰を下ろした。
「部屋を貸す件も話しておいたわ。これもまとまったのよ。あとはおばあちゃんに28スウ渡すだけ。あなたの泊まるのはあそこよ。」
ロザリーは中庭の奥ににある土壁の建物を指さした。ほとんの部分がれんが造りの家の影となって一部しか見えないのだが、ずいぶんぼろぼろにくたびれて、一体どうして崩れずにいるのか不思議なほどだった。
「昔、おばあちゃんはあそこに住んでいたのよ。そのあとエドモン様の乳母をしてもらったお金で私たちの家を建てたの。あそこはこっちの家みたいに快適ってわけじゃなけど、工員が中流家庭並みの部屋に住めないのはしょうがないことよね?」
二人から少し離れた別のテーブルに、40歳くらいの男性が座っていた。まじめくさって上着のボタンをきっちりはめ、シルクハットを頭に乗せ、装丁された小さな本に目を凝らしている。
「あれがベンディットさん。『主の祈り』を呼んでるのよ。」とロザリーは小声で言った。
それからすぐにロザリーは、この社員氏が熱心に読書してるのにお構いなく、呼びかけた。
「ベンディットさん、ここに英語をしゃべる女の子がいるわよ。」
「ああ。」とベンディット氏は言ったが、本から目を離そうとはしなかった。
そしてたっぷり2分は経ってから、ようやく彼は目を二人に向けた。
"Are you an English girl?"と彼は尋ねた。
"No sir, but my mother was."
ほかには何も言わず、彼は再び大好きな読書に没頭した。
二人が食事を終えたとき、道路の方から軽馬車の車輪の響きが聞こえはじめ、生け垣に近づくにつれ速度を落とした。
「ビルフラン様の馬車じゃないかしら。」とロザリーは大きな声で言って、素早く立ち上がった。
馬車はなおしばらく歩み、門の前で止まった。
「そうだわ。」そう言いながらロザリーは道の方へ走った。
ペリーヌはあえて席を立つことはなかったが、そちらをじっと見つめた。
小さな車輪の馬車に、手綱をとる若い男と、じっとしている老人の二人が乗っていた。老人は白髪で、頬に赤く静脈の走った青白い顔をしていて、麦わら帽子をかぶっていて、座っていても背が高そうに見える。この老人がビルフラン・パンダボアヌ氏だ。
ロザリーは馬車に近づいた。
「誰か出てきました。」と若い男は席から降りようとしながら言った。
「誰かな?」とビルフラン・パンダボアヌ氏は尋ねた。
ロザリーが答えた。
「ロザリーです。」
「おばあさんを呼んでくれんかね。話があるのでな。」
ロザリーは家に駆け込むと、すぐに大急ぎのおばあさんを伴って戻ってきた。
「こんにちは、ビルフラン様。」
「こんにちは、フランソワズ。」
「なんのご用でしょうか、ビルフラン様。」
「おまえの弟のオメールだが、どこをうろついてるんだね?今オメールの家に行って来たのだが、酔っ払った女房がいるだけで、何をいってもさっぱり通じんのでな。」
「オメールはアミアンです。今晩には戻りますが。」
「では伝えてくれ。オメールがダンスホールをごろつきどもの公開討論に貸したと聞いたが、わしはこの催しに反対だ。」
「すでに契約してましたら?」
「取り消さねばならん。さもなくば会合のあとすぐ首にする。これは雇用条件のひとつだから、厳密に履行する。わしはこの土地であの手の会合をさせたくない。」
「フレクセールでもありましたよ。」
「フレクセールはマロクールではない。わしはこの土地の人間にフレクセールの連中のようになって欲しくはない。皆を守るのはわしの務めだ。おまえたちはアンジューやアルトワの浮浪者とは違う。今のままでいてくれ。これがわしの考えだ。オメールに伝えておくように。さようなら、フランソワズ。」
「さようなら、ビルフラン様。」
ビルフランはベストのポケットを探った。
「ロザリーはどこだね。」
「ここにいます。ビルフラン様。」
彼が差し伸べた手には、10スウ銀貨が光っていた。
「これをあげよう。」
「まあ。ありがとうございます、ビルフラン様。」
馬車は去っていった。
ペリーヌは一言も聞き漏らさなかった。しかしビルフラン氏の言葉の一つ一つより、彼の威厳に満ちた雰囲気や、自分の意志を知らしめる言い方といったものが、彼女の印象に残った。「わしはこの催しに反対だ……これがわしの考えだ。」これまでペリーヌは、こんな風に話す人を見たことはなかった。そしてこの言い方だけが、彼の意志が堅く厳しいことを示していた。なにしろ、彼のふらふらもじもじとした物腰は、その言葉とまるで一致していなかったので。
ロザリーは間もなく嬉々として戻ってきた。
「ビルフラン様に10スウ貰ったわよ。」彼女はそう言って、勝ち取ったコインを自慢げに見せた。
「ちゃんと見てたわ。」
「ゼノビおばさんの耳に入りませんように。保管しておくって取り上げられちゃうから。」
「ビルフラン様はあなたをよくわからなかったみたいね。」
「わたしをよくわからないですって?ビルフラン様はわたしの名付け親なのよ。」
「あなたがすぐそばにいるのに『ロザリーはどこだね。』なんて言ってたじゃない。」
「そりゃそうよ。目が見えないんだもの。」
「目が見えないの!」
「ビルフラン様がめくらだって知らないの?」
「めくら!」
ペリーヌはその言葉を小さく2・3回繰り返した。
「だいぶ前から目が見えないの?」とペリーヌは聞いた。
「何年もかけてだんだん視力が落ちてきたんだけど、だれも気に留めてなかったのよ。エドモン様のことで心を悩ましているのだと、みんな思っていたのね。昔は健康だったのに身体も弱くなって、肺炎を患ったので咳が残って、そしてある日、読むことも動くことも出来なくなってたのよ。私たちみんながどんなに気をもんだかわかるでしょう。ビルフラン様が工場を売るったりやめたりしなければならないとしたら!もちろんそんなことはなかったわ。ビルフラン様は何もやめることなく、ちゃんと見えてるみたいに働き続けているもの。ビルフラン様の病気で自分が工場の主になれると期待した人たちだけは、元どおりで当てが外れたけどね。」ロザリーは声をひそめた。「甥っ子たちとタルエル支配人のことよ。」
ゼノビが玄関で叫んだ。
「ロザリー。何てのろまなんだい。とっとと来なさい。」
「やっと食べ終わったところよ。」
「お客様がお待ちなんだよ。」
「わたし先にいかなきゃならないわ。」
「わたしのことはいいのよ。」
「じゃあまた今晩会いましょう。」
ロザリーはゆっくりとした歩みで、しぶしぶと家の中へ向かった。
もしもここが自分の家だったなら、ロザリーが行ってしまっても、ペリーヌはためらうことなく椅子に腰をおろしたまま一休みしていたことだろう。しかし今は自分の家にいるのではなかった。それにこの中庭は母屋に下宿している社員たちのもので、工員のものではなかった。奥の方に工員のための小さな中庭があるのだが、そこにはベンチも椅子もテーブルも何一つない。彼女は仕方なくベンチからたって、ぶらぶらと足の向くままに村の通りを歩き始めた。
ペリーヌはずいぶんのんびりと歩いたのだが、しばらくするとすっかり通りを巡りきってしまった。視線がじろじろとまとわりつくのを感じて、立ち止まるに立ち止まれなかったし、あえて引き返していつまでも同じ道を巡る気にもなれなかった。すでにしばらく前から、工場と向かい合う丘のてっぺんを森が覆っていることにペリーヌは気がついていた。その青々とした姿が空にぽっかりと浮かびあがっている。おそらくあそこであれば、日曜日の喧噪を離れて一人になり、誰の注意を引くこともなく腰をおろせるだろう。
ペリーヌの期待したとおり、森にも森に面した野原にもひとけはなかった。おかげで彼女は野原のはずれのコケの上にのびのびと横たわることができた。この場所から下を見ると、マロクールの街並み全体がすっぽりと視界に入る。お父さんから聞いた話で、ペリーヌはこの村をよく知っていた。ところが実際に歩くと複雑に曲がりくねっていて、少し迷ってしまった。しかし今あらためて見下ろすと、長旅の間にお父さんがお母さんに語った描写から思い浮かべたとおりだとわかる。そしてまた、飢えからくる幻覚の中、行き着けないのではないかと絶望しつつ、幸せを約束された地として夢見たとおりだとも。
いよいよその地についたのだ。マロクールはまさに目の前に、通りや家を一つ一つを指さすことができるところに広がっている。
うれしい!本当に正真正銘のマロクールなのだ。憑かれたかのように繰り返し口にしたマロクール、フランスに入国して以来、通りすぎる馬車や、駅に停まる貨車の幌に書かれたのを目で追っては、実在することを確かめていたマロクール。それはもはや途方もなく漠然として捕らえどころのない夢の国でなく、現実の土地となったのだ。
ちょうどペリーヌの正面、村をはさんで反対側の、彼女が座っているのと向かい合った斜面に工場の建物が並んでいた。工場の屋根の色を見れば、まるでこの土地の住人が直接話して聴かせてくれるかのように、その発展の歴史を追いかけることができる。
工場中心部の川岸の細長い煙突に隣り合って、煉瓦でできた古い建物が見える。建物のタイルは汚れて黒ずんでいるし、煙突も海風と雨と煙にむしばまれている。これらはずっと昔に亜麻の製糸工場だったのだが、工場がつぶれてからは長いこと打ち捨てられていた。細々と織物製造を営んでいたビルフラン・パンダボアヌが今から35年前にこの空き工場を借りたとき、土地の多くの人はきちがい沙汰だと軽蔑し、「やつは破産するだろう」とまで言ったのだ。ところがビルフランは破産しなかった。そのかわりに富が、はじめはほんの少しずつ、やがては百万フランの単位で蓄積されていった。このお母さんの周りにはすぐにたくさんの子供たちが群がるようになった。最初の子供たちはお母さんと同じように枠組みも外装もひどくて貧弱だった。これは貧乏に苦しんだ家族によくあることだ。しかし他のもの、とりわけ年若い者たちは立派で、必要以上なまでに頑丈で、さまざまな色の飾りに覆われていて、兄たちの、モルタルや粘土でできたブロックが惨めに落ちくぼみ、年齢以上にやつれた姿とはまるで異なっている。鉄製のはりや、ばら色や白に色づけされた煉瓦でできた建物正面といった姿は、仕事や歳月による疲れをものともしないようだ。また、初期の建物は古い工場の周りの狭苦しい土地に何とか押し込まれているのに、新しい建物は周辺の草地の中に広い敷地を占め、鉄道の線路や動力の駆動軸や工場全体を覆う無数の電線の網で相互に結ばれている。
しばらくの間、ペリーヌはこの工場の入り組んだ様子に我を忘れて見入っていた。力強く上へ伸びる太い煙突から屋根に突き立つ避雷針へ、そして電信柱へ、線路の貨車へ、石炭置き場へと視線を泳がして、今は静止しているこの小さな工業区域のすべてのものに火が入り、煙を上げ、作動し、回転し、そしてパリを出るときサン・ドニで聞いたおそろしい騒音を立ててうなるとき、どんな活気を示すのか思い浮かべようと努めた。
それからペリーヌの視線は村に向かった。見ると、村も工場に続いて同じような発展を遂げたことがわかる。花の咲いたべんけい草がまるで金帽子のように屋根を覆う古い家が教会の周囲をぎっしりと取り巻いている。それに対して、炉を出たてのタイルが赤い色をまだ残している新しい家は川の流れを追いつつ草原と木々の間にひろがる谷間に点在している。けれども工場の場合とは対照的に、古い家は頑丈そうで立派な作りなのに、新しい家はみすぼらしい。まるで、農村だった頃のマロクールでの農民の暮らしが、工業化された今のマロクールでの暮らしより豊かだったかのようだ。
古い家々のなかに特に大きく立派で目立つ家があった。草木の生い茂る庭園が家を取り囲んでいるという点でも他の家から際だっていた。そしてその家から川へ降りたところには棚付きのテラスが2つ突き出していて洗濯場となっている。ああ、あの家だなと、ペリーヌにはわかった。マロクールに居を定めてから大邸宅を建てるまで、ビルフラン氏はこの家に住んでいたのだ。子供の頃のお父さんはこの洗濯場で洗濯女たちのおしゃべりを聞きながら洗濯日を過ごし、その思い出をずっと忘れずにいて、ペリーヌに聞かせてくれた。お父さんが語った「泥炭沼の妖精」「イギリス人が消えた沼」「アンジェストの怪物」をはじめとするこの地方に伝わる10いくつのお話をペリーヌはまるで昨日聞いたかのように覚えている。
太陽が動くのにつれて、ペリーヌは居場所を変えなければならなかった。しかし、あきらめた場所と同じように草が柔らかで、やはりよい香りに満ちていて、村と谷の全容をすばらしくよく見渡せる場所が、何歩も行かずに見つかるのだった。そのまま夕方まで、彼女はもう長いこと経験したことのないような至福の時を過ごした。
もちろん、休息の心地よさに浸りきりで自分の先行きを考えないほどペリーヌは不注意でなかった。仕事と食事と寝床の見通しをつけたものの、目標のすべてを成し遂げたわけではないのだ。お母さんの願いを成し遂げるために残されていることはあまりにむずかしい。そのことを考えるとただ心細く感じるだけ……いや、これまでだってとても乗り越えられそうもない試練が何度もあったというのに、ついにマロクールまでたどり着くというすばらしい成果をおさめたではないか。これからいかに長い時間がかかろうと、耐え難いような戦いとなろうと、もはや絶望するようなことは何もない。今では屋根のついた住処も、日に10スウの収入もある。道路の土の上を寝床とし、白樺の樹皮しか食べるものがなかったほど惨めな境遇からみれば、大変な出世ではないか。
これから新たに始まる日々の生活において、することしないこと、言うこと言わないこと決めて、あらかじめ行動の計画を立てておいた方が賢明だとペリーヌは考えた。こんな状況は初めて経験するので計画を立てるのは難しそうだとあらかじめ予想していたが、程なく実際にこの仕事が自分の力を越えていることを覚った。もしもお母さんがマロクールにたどり着けていれば、何をするのが賢明なのか間違いなくわかっていたろう。けれどもペリーヌには、経験や知性、慎重さや繊細さのいずれの点でも死んでしまったお母さんほどの力はない。導いてくれる人も、支えてくれる人も、助言してくれる人すらもいない子供にすぎないのだ。
この思いと、あらためてお母さんの面影を思い起こしたために、ペリーヌの目には涙がこみ上げてきた。
「お母さん、愛しいお母さん!」
まるで自分を救う魔法の呪文であるかのように、あの日に墓地を立ってから何度も口にしたこの言葉を繰り返すと、こらえきれぬ涙があふれでた。
これまでこの言葉は、ペリーヌが疲労と絶望に打ちひしがれて戦いをあきらめようとしたとき、彼女の救いとなり、元気付けて、立ち直らせてくれたのではなかったか。「見えるわ……。見えるのよ。幸せになったおまえの姿が。」もしもこの臨終の言葉を繰り返していなければ、最後まで抵抗を続けられただろうか。死に臨んですでに魂がこの世とあの世のはざまにある人は健康な人には明らかにされていない多くの不思議なことを知っているといわれるのを信じよう。
ペリーヌは弱気になることなく立ち直った。さらに、ときおり吹きよせる暖かい微風がぬれた頬にお母さんの愛撫をもたらし、お母さんの「幸せになった姿が見えるわ。」という言葉をささやくように思い。希望と確信とで心を高揚させた。
幸せになれないはずがない。お母さんは今もそばにいて、守護天使のように見守ってくれている。そうに違いない。
そこでペリーヌは、なんとかお母さんと話をして、パリでしてくれた予言をもう一度お願いできないものだろうかと考えついた。気分は高揚していたけれど、生きていたときのように普通の言葉でお母さんに話しかけられるとか、そういった言葉でお母さんが返事してくれるとは、ペリーヌには思いもよらなかった。なぜなら霊というものは、その神秘的な言葉をきちんと理解する人と話すときでさえも、生きている人のようにはしゃべらないものだから。
ペリーヌは自分の心を激しく引きつけるこの神秘的な未知の問題に興味を抱き、答えを求めてずいぶん長いこと考え込んでいた。ふと彼女の目は、自身が横になっている草むらの、ヒナギクがたくさん集まっているところに引きつけられた。その大きく白い花はこの草むらの中でとても目立っている。ペリーヌは素早く身を起こすとそこへ立って、あれこれ選ばないように目を閉じたまま、何本かを集めた。
そうして祈るような気持ちで元の場所に戻ると、腰をおろし、震えの止まらぬ手で花冠から花びらを抜き去り始めた。
「わたしは少し幸せになる。普通に幸せになる。とても幸せになる。幸せになれない。少し・普通・とても・なれない……。」
彼女はこの作業を丹念に繰り返し、残る花びらはほんの少しとなった。
残りは何枚だろう?ペリーヌは数えたくなかった。数えた結果で答えがわかってしまうのだから。強く胸が締めつけられたけれど、彼女は意を決して残りの花びらを摘んだ。
「……少し、……普通、……とても。」
同時に暖かい風がペリーヌの髪の間と唇の上を通り抜けた。お母さんがいつも返事がわりにしてくれた一番愛情のこもったキスのように。