高橋是清自伝
私は最初自分の伝記を公刊するの考えは少しもなかった。ただ子孫に残すために、その概略を綴っておきたいと、数年前から暇を見ては、日記、手帳、往復文書など諸般の資料を整理して来た。
何しろ、維新前に遡さかのぼってからの諸資料であるから、誠に多種多様でかつ広汎なものである。それを順々に整理して、資料になりそうなものはすべて上塚君に渡しておいた、すると上塚君はそれを分類し、各資料について私に話を聞きに来る。それに対して私は記憶を呼び起して口述する、上塚君はそれを筆記し、清書して持って来る。それをまた私が補正するというようなわけで、最初の間は別段順序もつけず、ある事柄を中心として話をして、それが纒まると、記述中の事実に相違なきや否やを確かめおく程度に止とどめておいた。そうしてかくのごときことが数年間続いた。
その後、東京大阪朝日新聞社より一代記の発表方の交渉を受け、それより順序をつけて口述することにした。
それを上塚君が手記して、さらに原稿紙に書き直して持って来る。目が悪いから、自ら一々見て加除訂正を加えるわけには行かないから、それを上塚君に読上げさして事実に間違いなきや否やを確かめた。そうして出来上ったのが一代記である。今回、さらに自伝として、一冊に纒めて版にするに際し、補正、校訂と編輯の一切を上塚君に任した次第である。本書の補遺はあらためて上塚君の手によってなされることと思う。 昭和十一年一月 高 橋 是 清
手記者の言葉
翁の側近に在ること二十余年。しかして私が翁に仕えたのは、翁が最も円熟の域に達せられ、しかも非常なる難関に遭遇し、身を挺して邦家の大事に奮闘せられつつある時代からであった。従って、私は事々物々に、翁の純忠至誠の発露を見て、訓おしえられるところ甚だ大なるものがあった。
その後私は、翁が朝(ちょう)に在る時も、野(や)に在る時も、翁の膝下に参じては、その謦咳(けいがい)に接している。常に私にとっては翁の傍かたわらに在ること自体が、大なる感激であり、修養である。
翁の行蔵(こうぞう)には神韻縹渺(ひょうびょう)の趣がある。翁の言葉には無限の含蓄を包蔵する。私は翁に参じ、翁の訓(おしえ)を受けるごとにその一句をも聞き漏らすまじと、いつの間にか筆を走らせて記録に留めるようになった。かくて、あるいは表町(おもてちょう)の翁の居間において、あるいは応接間において、あるいは庭前の芝生にて、時には大臣室にて、あるいは自動車の中において、あるいはまた湘南葉山の別邸において、翁の口より漏れ出ずる言葉は、私のノートのページを、後から後からと埋めて行った。
その中に、私は翁の一生の思い出を書き綴っておきたいと願って、その許しを得た。春の朝(あした)、冬の夕(ゆうべ)、書き続けた私のノートはすでに三十余巻の多きに達している。私は尊とうとむべき翁の言葉をありのままに残さんと欲して、細心の留意をなした。ただ恐れる所は、私ごとき未熟の筆と心境とをもってして、果してよく翁の真髄を伝え得るや否やであった。従って、この物語の中には、手記者自身の私見や第三者の意見は少しも含まれていない。しかして書き取られたる物語は、一節を終るごとに清書して翁の検閲を請うた。翁は親しく筆を執ってこれを補正せられた。しかして、この補正は一回、二回に止まらず、三回、四回、中には五回に及ぶものすらある。
本書は、波瀾重畳(ちょうじょう)、数奇(さっき)極まる七十有余年の思い出を、数年の長きにわたり翁自ら口述せられたる、偽らざる告白である。翁に関するいかなる記述も、これ以上に正確を帰する能わざるべく、また翁自身の物語の世に公おおやけにせらるる、これが唯一無二のものであろうことを確信する。
本書は、先に東京大阪両朝日新聞社より発表されたものを、今回さらに全内容を整備し、訂正して、これを全一冊に収め、高橋是清翁自伝として刊行するに当り、翁の与えられた深甚なる御好意に、更あらためて感謝の心を捧ぐるものである。
昭和十一年一月三十日 上塚 司 記す (熊本県出身高橋是清の秘書官、後熊本2区代議士)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%A1%9A%E5%8F%B8
アマゾン調査隊長 前代議士 上塚 司
https://www.ndl.go.jp/brasil/text/t063.html
〔一〕私の生い立ち時代
生れて四日目に襲う波瀾の人生(里子から養子に)
私は、生れて(安政元年)から三、四日もたたぬうちに、仙台藩の高橋家に里子にやられた。二年ばかりたつと三田聖坂の菓子屋で相当な店であったのが、私を養子に欲しいとて、生家川村へ相談に来た。川村でもそれとなく貰もらい手を探しておった時なので、話はスラスラと運んで、いよいよ縁切りでやることになった。それで川村から高橋の所へ、里子たる私を取戻しに往った。すると、高橋の祖母は、「二年も育てて来たこの可愛い子を、士(さむらい)ならとにかく、町人へやるのは可哀そうだ。足軽でもまだ自分の家へ貰っておいた方がよい」といって、留守居役の大浪太兵衛という人の所へ行って相談した。この家は、祖母が始終出入りした所で、私などもたびたび連れて行かれ、その妻女や家人などは、非常に私を可愛がってくれておった。そこで大浪のいうのには「そりゃお前の考えがよい。すぐ貰いなさい、そうして、お上へは実子として届けなさい」と親切にいってくれた。よって高橋家ではすぐに貰うことにきまり、改めて川村の家に相談した。川村家では、元より異議のあろう筈はなく、即座に菓子屋を断って、縁切りということで、高橋家へ遣ることになった。かくて私は今日のごとく、高橋覚治の実子として、高橋姓を名乗るに至ったのである。
註)高橋是清は安政元年(1854年)、江戸で生まれた。父は幕府のお抱え絵師・川村庄右衛門。庄右衛門が自宅の侍女・北原きんとのあいだにもうけた私生児だった。生後わずか4日目に仙台藩の足軽・高橋家に養子に出される。
そこで思う。人間の運命というものは実に妙なものだ、もしこの場合、私が菓子屋の養子となっていたら、あるいは一生菓子屋で終ったかも知れぬ。少くとも今とは全然異なった立場にあったに相違ない。人の一生は実に間髪の間に決るものだ。
そういう風で、私は高橋家に入ったが、同家は足軽格でも、苗字帯刀は許されておったので私の生家川村家とは、始終往来した。私も祖母につれられて、しばしば川村の家を訪ね、実父庄右衛門守房(もりふさ)にも会ったものだ。
五つか六つのころになって私は高橋の生れでなく、川村の生れだということを、祖母に聞かされた。が、川村の方からは、私に対して、少しも実父としての言葉や態度を取らなかった。私もこれが実父とは考えながらも、決してそんな身振りをせず、川村へ行く時も、ただ立派な家へ行くというような心持でいたばかりだ。
アメリカから帰って文部省に勤めるようになってから、川村家とは頻繁に往来した。実父庄右衛門も、折にふれ、飄然(ひょうぜん)としてやって来ては、私を相手に酒を酌くむことを楽しみにしておった。こんな場合でも、川村は私にサン附けをして呼んで、少しも自分の子だという態度はあらわさなかった。
維新後、川村が非常に困って深川閻魔堂(えんまどう)橋側に団子店(だんごみせ)を出した、私はその当時、一月に一度ぐらいは必ず露月町(ろげつちょう)の川村の家を訪問していたが、ある時訪ねると、多分団子屋の店を出すにつけ金が要ったのであろう、川村の義母から、「実は、お前にこんなこと話せた義理ではないが、家もこんな時世となって大変に困っているところへ、今度よんどころないことで急にお金が入用になった。お前には誠に頼み兼ねるが、二十五金ばかり手伝ってくれないか。」という話が出た。今でも覚えているが、私は義母からこの言葉を聞いた時ぐらい嬉しく感じたことはなかった。もちろん、私は当時すでに大学南校(なんこう)の教員をしておったので、直ちに才覚して、有難く持って行った。
今、高橋家に、父守房の筆になる鍾馗(しょうき)及び飛鳥山春景(あすかやましゅんけい)の絵がある。鍾馗の絵は朱筆で、なかなか豪快な格好をしている。これは、私が五歳の祝いとして、父より贈られたものである。また飛鳥山の絵は、明治八年ごろだったと思う。私が、何か一つ記念のために書いておいて下さいと頼むと、父は維新以来絶えて絵筆をとらなかったのだが、先年たまたま飛鳥山に遊んだ時その風景を写しておいたから、それを書いて贈ろうと答えた。そして明治十年になって、前約を履ふんで持参してくれたものである。これには、探昇翁(たんしょうおう)の落款(らっかん)がある。この時父が説明していうのには、男も七十になったら翁といっても差支えないから、今年始めてその年に達したので、翁と書いたと笑ったものだ。
それから、明治十年三月(二十四歳)に、長男の是賢(これかた)が生れたので、五月の初節句に、座敷で飾る五月幟(のぼり)を書いて送って来た。それは、絹地に鍾馗を画き、その上方に、高橋家の家紋笠かさの図が書いてある。これは随分古くなったが、今もなお高橋子爵家に保存されている。
実父庄右衛門守房は、翌十一年に病いを得て、大変重体に陥った。それで、私は当時横浜に開業しておったセメンズという外国医に頼んで診断を乞うた。いろいろと手を尽したが、同年の七月二十八日にとうとう亡くなってしまった。(実父母および養父母については上塚司記の本書附録参照)
生みの母とただ一度の対面(三歳の頃)
私と生母との縁は、誠に薄かった。私は生れるとすぐ里子にやられたので、世の常の人のように、生母の乳を呑み、その慈愛の下に育つことは出来なかった。祖母に聞いた話であるが、たしか私がまだ三歳の時養父母たる高橋覚治と妻文(ふみ)の二人は私を抱いだき上げて、打揃うて、赤坂の氷川(ひかわ)神社に参詣した。するとたまたま境内で私の生母(きん)に邂逅(かいこう)した。きんとふみとは、互いに見知り合いの仲であったから、早速挨拶を取交わした。その時生母は十八歳、丈高からず、いずれかといえば少しく肥った方で、円顔、眉目清秀で髪は髷まげに結い一見二十四、五にも見えたそうである。養父母らはあらわに告げはしなかったが生母は心中さてはこれが我が児であったかと、私を見つめて、懐しさと嬉しさに心取られ、恍こうとして側を離れ得なかったそうだ。養父母の方では、そうした生母の姿がいかにも恩愛に溢れ、親子の情切なるものがあったので、生母の意中を察して、涙ながらに別れを惜しんで袂たもとを分った。これが私が生母に対面したそもそもの始めで、また最終であった。これが安政三年の出来事である。
世間の有様は、このころからして、ようやく騒がしくなって来た。嘉永六年六月には、アメリカの黒船が浦賀に渡来し、国内は鼎かなえの沸わくがごとく動揺し始めた。京きょう洛らくには志士横行し、尊王攘夷の叫びは、隠然として六十余州の到るところから巻き起った。ついに万延元年三月三日、桜田門の変となり、世の中の不安は、一層に濃くなって血なまぐさき風は到るところに吹き荒すさみ、仕事はなくなり、商売は不景気となるばかりであった。
その内に、私もだんだんと成長して、後段述べるように、大崎猿町(おおざきさるまち)の寿昌寺という仙台藩の菩提所に奉公することとなった。そのころのことである、養祖母は、私の生母が浜松町の塩肴屋(しおざかなや)に嫁いで女の子を生んだことを聞き知り、それに世の中がこう騒がしくなっては、お互いにいついかなる事変に遭わんとも限らないので今のうちに兄妹対面して、見知りおくがよかろうと、一日寿昌寺に来て私にその話をした。
ところがその塩肴屋がどこにあるか、私も祖母も知らない。たまたま私が塩肴屋の菩提所は、高輪の妙源寺であることを聞き知っておったので、菩提所に行けば、塩肴屋の在あり所かも分るであろうと、祖母と二人で妙源寺に行き、坊さんに会って、その在所を尋ねた。
しかるに、図はからざりき、今喜び勇んで会わんことをのみ願っていた生母はすでにこの世を去って二年、呼べど叫べど応(こたえ)なき身となり、終りおらんとは。坊さんに案内せられて、泣く泣く一遍の回向(えこう)をなし、いま、寺の坊さんから聞いた浜松町の塩肴屋に尋ねて行った。
肴屋の主人は幸治郎(こうじろう)といったが、ちょうど祖母と私とが、訪ねて行った時には、後妻おすずが亡妻の遺形身(わすれがたみ)おかね(私の義妹)を抱いて乳を哺ふくませている所であった。
肴屋幸治郎は先妻きん女が亡くなると、まもなく後妻おすずを迎え、先妻の名を継がしめておきんと呼んでいた。この後妻も心だてのよい女で、その翌年かに直次郎という男の子を挙げたが、その時、先妻の遺児おかねは、まだ二歳であったので、後妻おきんは先妻への義理を立てて、幸治郎にも納得させ、己おのが実子直次郎は他に里子にやり、先妻の子おかねを自分の乳で育てて居った。
祖母と私が訪ねて行くと、おきんは右の事情を語り出した。私もこれを聞いて、非常に感動した。しかし、祖母は何を考えてかそこにいる私が、先妻きんの子でおかねの兄であることはおくびにも出さなかった。
その後数年、慶応三年私が十四歳の時、仙台藩からアメリカへ留学する時、祖母は再び私を連れて塩肴屋を訪ね、今度ははじめて、私の素性を語って、これから遠い異国に留学することを話した。後妻おきんはおかねの義兄にこんな立派な人があったかと非常に喜んで挨拶してくれた。
この日、祖母の勧めでおきんはおかねを抱いて、我々と四人芝(しば)妙源寺に行って私の生母瑞香信女(ずいこうしんにょ)の墓を弔らった。その時、祖母は私に生母の法名を書き取らせ、それを観世音菩薩の守札と併あわせて、私の守札に入れ、亡き生母が観世音菩薩と共に、私の身を守るようにと、祈願してくれたものである。
仮名文字で書かれた四書
吾輩は、今日もっとも大切な家宝として、手箱の中に保存しているものがある。それは祖母がちり紙に仮名文字で、吾輩の復習を指導してくれたときの、その記念の紙切れである。吾輩が六、七歳になって、漢学塾に通っていた時分のこと。家へ帰ってから復習していると、祖母はかたわらで賃仕事をしながら、吾輩の音読するのを聞いていて、それを仮名文字で書き取っておき、後で吾輩が忘れたりすると、すぐにこの紙を開いて教えてくれ、また間違っているところを直してくれるのであった。
祖母の書き取った仮名文字の四書のなかには、あるいは発音の誤っているところや、文字の脱漏したところなども、時にはないでもないが、しかし、今これを取り出して見ても、吾輩の音読だけによって、これを書き取った祖母の苦心と、精根の強かったことが、ありありと偲ばれるのである。
何しろ、祖母は漢学の素養などといっては更になく、従って、その意味なども、大方はわからなかったにちがいないと思われるの゛あるが、愛する孫のために復習の指導ができないのを残念に思って、かくも根気よく仮名文字でもって書き下したものであろう。
ともかく、すこしの漢学の素養もない一婦人が、子供の音読するのをそばで聞いていただけで、これだけのものを書き上げたのであるから、その点、吾輩は何ともいえない感動に打たれずにはいられないのである。
祖母は、その一面、また非常に規則正しい生活を送っていて、毎日ほとんど異なるところがなかった。ことに朝は最も早く起きる習慣で、東の空が薄明るくなると、必ず床を離れ、目が覚めてからいつまでも床の中でぼんやりしているようなことは、決してしなかった。この習慣は、いつしか吾輩にもしみ込んでいると見え、吾輩は昔から早起きの癖が付いている。
また祖母は、毎月十八日には、必ず浅草の観世音に参詣するのを例としていて、雨が降ろうが風が吹こうが、一度もこれを欠かしたことがなかった。そして、吾輩が、いつもそのお供を仰せつかったのであるが、その往復の途中では決まって論語を暗誦させられるのが常であった。
こういうふうに吾輩の教育ということについては、祖母は非常な熱誠を注がれたのであって、手記の仮名書きの四書は、実にその苦心の結晶であると思うと、取り出して眺める度ごとに、新たなる涙のわき出ずるのを禁ずることができないのである。
建長寺の僧で某という人が、祖母の父と親しかったので、ある時家へやってきた折に、
「人間は一生この二字を守っていさえすれば間違いはない」
と言って書いてくれたものがある。それは「堪忍」という二字であった。
祖母は、暇さえあると、この二字について、いろいろな実例をまぜて、吾輩に教訓を垂れてくれたものである。
高橋の子はしあわせ者だ
世の人は、吾輩を目して、楽天家とか楽観主義者とか言っているようであるが、自分自身でも、過去を振り返ってみると、何だかそのように思われる。
では、そうなった原因はどこにあるだろうかと、静かに遠い昔の記憶をたどってみると、思い当たる節がないでもない。
何でも、吾輩が、まだ三つか四つの幼い時のことであった。その頃、吾輩の育った仙台屋敷の通用門のそばに稲荷様の祠があって、そこにはいつも長屋中の子供たちが大勢遊んでおった。自分の長屋からもすぐ近くであったので、吾輩も毎日そこへ遊びに行くのが常であった。
すると、ある日のこと、いずれ子守か近所の娘にでも連れて行ってもらったのであろう、いつものように遊びに行っていると、そこへ急に藩主の奥方がご参詣になるという知らせがあって、その祠の近くにいたものは、みな人払いになった。ところが、どうしたはずみであったか、吾輩だけが、ただ一人、神殿の後ろに取り残されてしまった。そこへ早くも奥方はお供を連れて乗り込んできた。
そして、やがて拝殿に上がって、神前に礼拝しておられると、そこへ吾輩は神殿のうしろから、のこのこと這い出してきて、奥方に近づき、その着物をつかんで、
「おばさん、いいべべ、いいべべ」 と言ったそうだ。
奥方も、周囲の者も、これには驚いた。どうなるかと見ていると奥方は、
「どこの子か、かわいい子だね」 と頭をなでながら仰った。
そこで、お付きの女中が、 「これは高橋と申す者の子供です」
と申し上げているうちに、吾輩はいつの間にか、奥方の膝の上に這い上がってチョコンとしていたそうだ。
このことを後で聞いて、吾輩の親父などは、すっかり恐縮してしまい、何かお咎めでもありはせんかと、ビクビクしていると、そこへ奥方からの使者が見えて、「明日あの子を連れて来い」という仰せであると知らせてきた。
奥方は、芝の新銭座の上屋敷に住んでおられたから、そこへお伺いせねばならないのであるが、何しろ吾輩の家は、ひどい貧乏であるから、参上するにも着て行く衣類もない始末である。そこで、にわかに生家の川村の家に駆けつけて衣服を借りて来るやら、手許にある品々を質屋に持って行って、その夜のうちに襦袢を作るやら、大変な騒ぎ。やっと支度を間に合わせて、あくる日に参殿した。
すると、奥方は、たいへん喜ばれて、お叱りを受けるどころか、いろんな品々を頂戴して帰って来た。だから、同輩の人たちからは、
「高橋の子は何というしあわせ者だろう」
と言って、非常に羨ましがられた。それもそうであったろう。足軽の子が、殿様の奥方に呼ばれるなんてことは、まことに例のないことであったから。
そうして、「しあわせ者だ、しあわせ者だ」ということが評判になって、それがいつの間にか自分の耳にも入った。そして、子供心にも、自分はしあわせ者だという信念が、その自分から心の奥深く刻み付けられたのである。
吾輩の楽天主義
また、たぶん五歳のときであったと思うが、大名行列を見物に行って、間違って騎馬武士の馬蹄に掛けられたことがあった。このときにも、見ていた人はみな踏み殺されたと思ったらしいが、わずかに羽織の紋のところに馬の草鞋の型が付いていたばかりで、まことに運よくも、かすり傷ひとつ負わなかった。
このときにも「高橋の子は運のよい子だ、しあわせな子だ」と皆が評判して、それがやはり吾輩の耳にも入った。こうして、自分はしあわせ者だという信念がいよいよ固められたわけである。
それで、どんな失敗をしても、窮境に陥っても、自分にはいつか好い運が転換してくるに違いないと信じて、一心になって努力した。今にして思えば、それが吾輩を生来の楽天家たらしめた原因ではないかと思うのである。
だが、ここで注意してもらいたいのは、吾輩のいう楽天主義とは、いたずらに頼るべからざるを頼りとし、そのうちにはどうにかなるであろうとか、または棚からボタ餅式に幸運の転がり込んで来るのを漫然と待っているというような、そんな楽天主義ではないのであって、いわゆる「人事を尽くして、而して後に天を楽しむ」、これである。
真実の楽天的境地というものは、人事を尽くした後でなければ、とうてい得られるものではない。されば、事に当たって、正しいという確信を得たならば、自己の全知全能を傾けて最善を尽くす。すなわち事成れば、もとより快であるし、成らずともなお快たるを失わない。ここに至って初めて天を楽しむことができるのだ。
辱められたら、この短刀で死ね
慶応三年の春も、はや終わりに近い頃となって、吾輩と鈴木六之助(後に日本銀行の出納局長になった鈴木知雄君)とが仙台藩から選ばれて、アメリカへ勉強に遣られることになった。
ところが、両人とも同年の十三歳、まだ小さいから、向こうで誰かに世話になるがよいというので、江戸留守居役の大童信太夫さんから、横浜にいた星恂太郎という人に話があった。
この星という人は、同じく仙台藩士で、後には榎本武揚の軍に投じて、五稜郭に拠った人であるが、当時は英国兵式修業のために横浜に来ていたのである。そして、各藩へ鉄砲や何かを売り込むヴァン・リードというアメリカ商人の店に働いておった。
さて、大童さんから話を受けた星は、早速主人のヴァン・リードに相談した。するとヴァン・リードの言うには、
「それはちょうど好都合だ。私の両親は、いまサンフランシスコにいるが、自分は日本に来ているし、一人の弟は軍人でワシントンに住んでいるが、無人でさびしがっている。だから、その二人の子供は、自分の両親に世話してもらうことにしよう」と、たいへん調子のよい話なので、大童さんも非常に喜ぶし、吾輩も祖母もすっかり安心してしまった。そして一切万事ヴァン・リードの両親に頼むことになり、われわれの旅費だの学費だのは、藩のほうから直接ヴァン・リードに渡してしまった。
出帆の日も、だんだんと迫って来たある日のこと、祖母は吾輩を膝近く呼んで、一振りの短刀を授けて言うのには、
「男は名を惜しむことが第一です。辱められたら、この短刀でみごとに死になさい。わかりましたか」
そして、丁寧に手をとって、切腹の方法まで教えてくれた。
あくる日、祖母に見送られて船に乗り込んだ。ヴァン・リードに欺かれ、アメリカに行って、まさか奴隷に売られようなどとは神ならぬ身の知るよしもなく、その翌日、希望に輝き、欣々然として出かけたのである。
まことに祖母は、まれに見る烈女であった。吾輩の今日あるを得たのも、ひとえに祖母のたまものであり、祖母の精神は、吾輩の全生涯を通じて、脈々と生きておったのである。
弱冠十四にして渡米
吾輩が米国へ渡ったのは、まだ十四の年だった。最初仙台藩から、私ともう一人、都合二人が英学修業のために外国人について英学を修業しろ、という藩命によって横浜に行ったわけである。
当時、吾輩の宿は、仙台藩で横浜に建ててくれた塾みたいなものであって、それに寝泊りしながら、初めはヘボンの細君に付いていたが、ヘボンの細君が帰ったのちは、宣教師のバラーという人の奥さんについて英学を修業した。
訳読を教わるのは、その時分、外国商館と日本の商売人との間に立って通弁をしている人で太田英次郎という人であった。相当年をとった人である。その人が吾輩を非常に可愛がってくれて、親切に訳読を教えてくれた。
その時分に、英国の銀行で、金柱の通称で(門が鉄造り)知られた銀行があった。その銀行には、支配人ほか副支配人が三人ばかりおった。その副支配人のうちの首席者が、ちょうどボーイをほしがっている。太田も知っているものだから、吾輩をそこへ住み込ませた。
住み込んでみると、まるで境遇が違う。付き合うものは、いわゆる昔の異人館の別当とか小使とかいったもので、吾輩も彼らに引き込まれて、酒を飲んだり——博打は打たなかったが——今から考えると、ずいぶん乱暴な生活をした。彼らとともに、ねずみをとって焼いて食ったりしたことまであった。
そのうちに、あるとき——兄弟のようにしていた男が昼間やってきた。吾輩が夜帰らないから、昼間鈴木がやってきて、
「おれは今度米国へ行く」
というわけだ。というわけは、「先輩の富田鉄之助と——富田が勝の塾に入っていたが、その勝の息子の小六という人が今度米国へ行くんだ。それに好い機会だから遣ると言うので行くのだ」と言ったから、
「おれはどうしてくれる」と言うと、
「君は遊んでいて評判が悪い。あんな者を米国へ遣っては国の恥だということだ」
「そうか」
という具合で、初めてそのことを聞いて驚いたのだ。
それから自分でも、これは大いに悪かったというわけで、芸州藩の士族で横浜に修業に出て、金柱銀行で使われて日本人のボーイ長であった織田という人——この人はその時分二十二、三歳だったが立派な人なんだ——この人は、「まったく手に負えない奴だ」というので、吾輩を見放しておった。その人に打ち明けたわけだ。
高橋是清の慶應3年アメリカ留学時の写真(右側)。左側はのちの教育者の鈴木知雄。
捕鯨船でロンドン行きを一時決心
「実はこういうわけで、大恩を受けている祖母がいかに嘆くか知れない。吾輩は鈴木より先に外国へ行きたい。どこでもいいから、外国でさえあればよい」
ということを言った。すると、
「それでは早速、わしが聞き合わせてみよう。どうも君の、おばあさんに対して相すまんという、それだけの奮発心があるなら、おれが探してやる」
と言ってくれて、それから二、三日たつと、「ある」ということだ。英国の鯨を捕る船だ。それはおまけに帆前船だ
「その船長がボーイが欲しいからということだから、わしは君のことを話した。学問したいのだから、この子供は始終船にばかり乗っているわけに行かない。英国へ行って学問する道がつくだろうか、と言うと、『それは英国へ行って、わしが世話をする。けれども、帆前船で鯨を捕る船だから、容易にロンドンに行きゃしない。まず早くて半年くらいはかかるが、どうだ。自分の部屋を掃除するボーイが欲しいんだ。それでよければ、いっぺん会うから子供を連れて来い』というわけだ。君、行って会うか」
「それは結構だ」
「君、鯨船は半年もかかるし、それからロンドンへ行って修行ができるかできないかわからないが、そんな冒険なことをやるか」
「そりゃ、やる」
「それなら」と言うので、織田と二人して船長に会った。
そのときに、前にヘボンの細君やバラーの細君に付いていくらか英学をやって、こっちは片言でも話せるし、向こうの言うことはわかる。船長は、
「いつ発つか知れぬけれども、まだ一ヶ月くらいいる。そのつもりで自分のキャビン・ボーイになれ。暇な時にわしが英語を教えてやる」
という結構な話である。——あの時分に各藩から横浜に志士が、いろいろ自分の志を伸べるために学問をしに、かなり入り込んでいた。仙台のほうから星恂太郎という人が横浜に出ていた。この人は、米国人が鉄砲や弾薬を各藩に売り込む世話役をして、そのかたわら英国の兵学を学んでいた。
当時、各国の兵隊が横浜におり、ことに英国の赤隊というのが有名で、赤い着物を着た兵隊だ。山の上に二個大隊ぐらいおったかも知れん。オランダ、フランスの兵隊もおったわけだ。で、各藩の志士といった人たちは、お互いに横浜で知り合いができ、ボーイ長の織田と星は懇意だった。星は仙台の者だから、織田が行って吾輩のことを、こういうわけだと話した。
星は、
「織田から聞いたが、君は捕鯨船に乗って外国へ行く決心をしたそうだな」と言うから、吾輩がわけを話すと、
「そうか。それならよろしい、君と鈴木と一緒に行かれるように大童留守居役に言ってやるが、捕鯨船に乗って行くことだけはやめなさい」と言う。これは大変好い話になった。
そのうちに星が「用事が起こったから来い」という手紙を寄こした。星から大童に宛てた手紙をもって東京へ行けと言うので、その手紙をもらって、ひとつは心配し、その一方では非常にうれしく、さっそく織田に話して、銀行の方の暇をもらって、そして江戸へ出た。
大童のところへ行くと、さっそく「こちらへ通れ」ということだ。
「何しに来た」
「何しに来たって、星さんがこの手紙をもって行けと言うので参りました」と言うと、大童さんは手紙を読んで、
「うん、そうか。鈴木を今度米国へ修業に出すんだが、お前も遣るようにするから、家へ帰っておとなしくしていろ」と言われた。こんな具合で、自分も遂に行けることになった。
意外、奴隷生活
それから米国に一年半おった。
そのうちに維新の革新があった。その前にヴァン・リードという米国人が、仙台藩から金を受け取って、自分の両親のもとで、子のように面倒を見て学校に入れるということであったが、それが悪いやつで、鈴木を自分のうちで朝から晩までコキ使った。吾輩は幸いオークランドの金持ちの家に住み込むことができたが、それが奴隷だったということを吾輩は知らなかった。
シナ人と喧嘩をして暇をとろうとすると、
「暇はやれない。お前の体は私が買っているんだ」ということで、それで初めて売られたことを知ったのだ。
たぶん公証人の役所らしかったが、そこへ一條という人が来て——この人は、やはり吾輩が修業していた時分に横浜に出てきた人で、知っているし、ヴァン・リードをも知っている——これに署名せよと言うので、書いたのが、今で見ると「契約労働」で、三ヶ年の契約労働として、ブラウンという金満家の家に入り込んだわけだ。
このときに体が鍛えられたわけだ。そののち日本に帰って来て、何でも他人の三人前くらいは食べたね。酒も大変飲んだ。十八、九から二十二、三まではずいぶん飲んだ。
あちらでは、何しろ朝五時から起きて働いたものだ。初めは牛や馬の世話をするアイルランド人がいたが、暇を出された。ブラウンという一家族は、吾輩の行ったときワシントンに行っておった。そして総領の息子夫婦が家にいて、これに使われていた。
ブラウンは、そのうちにシナ駐在の公使を仰せ付けられたので、ワシントンから帰って来た。後には、吾輩などは大変によく取り扱ってくれた。しかし吾輩を使ってくれた息子夫婦も一緒にシナへ行って、吾輩は年限が残っているという関係で、親類に引継ぎをされた。この親類というのが、いい人で、主人は税関の役人であって、吾輩にかたわら税関の事務の手伝いをさせて、教育は十分にさせてやるから、いつでも来るようにということであった。
しかし、よく考えてみると、再びこれで縛られてしまえば、学校へ行けないと考えて、先輩の一條に相談をした。一條の言うことが面白い。
「いったい米国という国は、南北戦争が奴隷禁止の戦争である。あれ以来、奴隷というものはないはずだ。すなわち、ヴァン・リードのやったことは国法に背いている。これは何とかして反故にしなくちゃならない。それについてよい考えがある。いったん行って住み込んでは取り返しがつかないから、引継ぎされることはやめろ。何か向こうで言ってきたときは、こちらでも国法に背いたことをしている言ってやれば、何もしやしまいから、行くな」と一條がひとり心配してくれた。
行くなと言われても、ただ遊んでいるわけに行かないから、その時分に佐藤泰膳の息子で、佐藤桃太郎という人がいた。これは横浜の学友で、吾輩や鈴木が米国へ行って、半年も経ってからやって来た。そして、サンフランシスコでたった一軒の日本の品物を仕入れて売っている店の小僧になっていた。それで桃太郎に、
「実は、自分が契約を引き継いでくれるのを、一條が行かないほうがよいと言ってくれた。行かないとすると、寝泊りだけは一條の下宿屋にいて差し支えないが、食うのに困るから」と言うと、桃太郎が、
「それはいいよ、俺のところへ来い。俺のところへ客が買い物に来る——その時分に多く売れたのは日本の茶——それを届けてやれば向こうでチップをくれるから、それをお前の所得としたらよい。また夜は一條のところへ帰るのが嫌なら、俺のところで泊まればよい。夜は番頭も帰ってしまうから、俺ひとりだ」
ということなので、それに従うことにしたのだが、いよいよやってみると面白い。品物はたいてい婦人が買いに来る。それを届けると二十五セントぐらいくれるのだ。
その時分には、朝と晩は水とパンですませて昼間だけ料理屋で食事をする。二十五セントあれば、朝晩はパンを食ってすませるのだから、大丈夫、生活ができた。
維新の騒動起こる
そのうちに、維新の戦争が始まった。そこで、宇和島藩の城山静一という人が、越前の関口という医者とやって来た。そのお医者様は妙なお医者様で、ご維新のときに江戸の旗本が蒔絵なんかを二束三文で売ったものだが、それを買い集めて米国へ売りに来たのだ。その通訳に城山を連れて来たわけだ。
それが妙なもので、吾輩らが米国へ来たのと同じように、やはりヴァン・リードの話で城山は来たのである。
ちょうどその前、ハワイの二百名か二百五十名の日本移民のことがサンフランシスコの新聞に出ていた。それは、まことにひどい話で、なかには病気をして食うや食わずにいるものがある。病気をして休めば賃金をくれない。細君が出産したので、食えなくて夫婦とも自殺したとかいうことが出ている。給金は月四ドル、それも今言ったように、休めばくれないのだ。
その新聞を一條が見て、どうも困ったことが起きたものだと言っていた。そこへ城山の乗った船より前の便で、ハワイ新聞が着いて、それには今度城山という領事が日本から来る。この城山という人は、今難儀をしているハワイの日本人を救いに来るということが書いてある。そこで城山の乗って来た船が、サンフランシスコへ着いたときに迎えに出てみた。すると城山は、八丈の着物と羽織袴を着て上陸した。吾輩たちが出迎えに来たものだから、城山だけは一條と一緒に一條の下宿へ来た。
だんだん話してみると、城山は驚いておった。
「君がハワイの日本人を救いに来たということが新聞に出ていたから、われわれは驚いて出迎えに行ったわけだ」と言うと、
「そういうことはない。医者の骨董品売りの通弁について来たのだ。しかし、それは困ったもんだ」という。そして、われわれの話を聞いて、帰ると言い出した。
そのとき、われわれは初めてご維新の戦いのことを聞いた。そこで、一條が「実はわれわれも帰りたいのだ」と言ったものだ。
そうだ。その前にニューヨークの方に勝小六と一緒に行っていた富田鉄之助、高木三郎——これは酒井藩士——二人とも勝の塾におった人で、勝の息子の小六と一緒に藩の方から立派に金を出して、留学に出た男だが、維新の戦争が始まったというので、二人が勝をひとり学校に残して、
「自分たちは、じっとしていられない。とにかく日本へ帰らにゃならん」と言ってサンフランシスコへ出て来た。そこで一條が吾輩のことを二人に訴えた。これは城山の着く前の話。
そういうものだから、ブルックという日本の名誉領事に、富田と高木と一條の三人が相談の結果、訴えた。訴えるのに手紙をこしらえた。
仙台藩からは、維新の騒動が起こったから、二人の子供をすぐに返せと言ってきた。そして、この子供を寄こすについて、仙台藩から二人の学資として金をヴァン・リードに渡してある。それを契約労働として売ってしまったというわけで訴え出た。
すると、ブルックスという人が調べて裁いてくれた。ヴァン・リードは白状した。仙台藩の金は預かったに相違ない。二人の使ったものはその金で支払っている。だから預かった金を精算して、余った金は一條に渡すということで、精算すると金が余った。それから城山がすぐ帰ると言い出したものだから、お医者様も怒って、連れては来たが帰る船賃をくれない。ところが、ちょうど計算してみると、余った金で三人が帰れるのだ。それなら都合がよいということになった。
だが、われわれは仙台藩である。仙台藩は賊軍だ。うっかり日本へ着いて、どんな目に遭うか知れない。その前に富田と高木が、戦争が始まって帰るときに用心をとって、「いきなり横浜へ着くのは剣呑だ。酒井藩と仙台藩だからいけない。そこでいったん上海へ行って、日本内地の模様を聞きただして、それから内地へ行く。私たちはまた帰って来るんだから、それまでは、なんとしても辛抱して残っておれ」、というわけで別れた。
だから、「われわれも仙台藩の者である。城山は宇和島なんだから、君が身分をうまく言って、面倒の起こらないように税関とか運上所なんかを通過するよう取り計らってくれないか。その代わり船賃は要らない。幸い二人の金があるから、われわれも一着だけ新しい着物をこしらえて帰ろう」というので、四人とも同じ洋服をこしらえた。これが一張羅である。そして船に乗って横浜へ着いた。
そういうふうにして帰って来たが、帰って来てから城山に大変世話になった。
牛込神楽坂の河岸ぶちの汁粉屋の離れ座敷を借りて、外へ出ること相ならんと言い渡しておいて、そのうちに森有礼さんのところへ話してくれた。森さんが「そういうわけなら、わしが引き取ろう」と言うので、森さんの家へ入るようになったわけだ。
森有礼氏 刺殺さる
森有礼先生の名が出たから、森さんの話を少ししてみよう。
森先生が、廃刀論をやられたのは有名である。元来、森先生は書生が好きで、私たち三人のほかにまだ二、三人おった。吾輩の先輩であった一條という人は、のちに後藤と姓を変えたが、漢学ができる人で、フランス学、英学もやりおった。けれどもこれは変則であった。のちには鮫島公使に付いて、フランスに行ったが根は漢学者であった。だから森さんは、「英学はわしが教えるが漢学は一條が教えろ。みんな一條について学べ。わしも英学をいちいち教えるわけに行かないから、このうちで一番覚えのいいやつに教える。ほかの者は、それに教わるがいい」と言うので、私が選ばれて森さんからじかに吾輩が教わって、その通りほかの者に教えた。
そのうちにこの廃刀論のために、森さんの身辺が大変危うくなってきた。
森さんは、今の衆議院みたいなもので、初めて公用人が出て会議を開くとき、その議長になられた。神田孝平さんが副議長。神田さんし声が大きくて内証話ができない。当時、神田さんの内証話は声が大きいから書生のおるところに聞こえてきた。
あるとき神田さんは議員中のある人の論旨を伝えて言って、「一体このさい廃刀なんかけしからん。昔は一本だったが、士気が衰えたときに二本にして士気が振るった。今日この国難に打ち克って行くには、二本のものを三本差さなんだらいかん」という議論だった。で、三条さんとか岩倉さんのところへ、森さんが出かけるときは、夜は馬に乗って行くが、昼は馬車に乗って行く。夜は馬に乗って行くので、鈴木と吾輩は廃刀論者にかかわらず、刀をさして護衛して行ったものだ。
先生は廃刀論のために、身辺の危険があるので遂に鹿児島へ引っ込むことになった。そして、また出て弁務使となって米国へ赴任することになった。
その前、明治二年だったか、初めて明治天皇が京都から東京へお帰りになったとき、拝謁を賜った。その時分は烏帽子、直垂で拝謁する。森さんも烏帽子、直垂をこしらえた。われわれは天子様を拝むと眼がつぶれると言われて育ったので、森先生の帰って来られるのを待って、「ご様子を伺いたい」と先生に頼んで待ち構えておった。で、帰って来られたので、どうでしたと言ったところが、森さんが、
「どうも龍顔を拝することができなかった」ということだ。
「ずっと膝ですって行くと、御簾が上がると、頭を下げたきり上向くことができなかった。ご様子をお前たちに伝えることはできない。龍顔を拝することができなかったのだ」と言われた。
森さんが殺されたときは、吾輩は農商務省の奏任官だったので、宮中の憲法発布式に参列しておったが、式の途中で出るわけに行かず、十一時過ぎ、出るとすぐ駆けつけて行ったが、すでにこと切れていた。その時分には、立派なお医者様が、憲法発布式に宮中に出ていた。ああいう大官になると、町の医者は手が付けられないのだ。
殺しに来た人間は、初め森先生に会いたいと言って来たが、森さんは朝、憲法発布式に出かけるので、支度をしていた。そこで執事が会った。
玄関の右側の方に待合室があったが、その部屋に入って、随分しばらくおったらしい。そして、いよいよ時が来たんで、お出かけだ。奥さんが後ろへ付いて護衛の人が傍らに付いていた。森先生は大礼服を着て、いつもの癖で、ポケットに手を入れていた。その前、何か事件があってはと、警察から大臣の出る前、途中の様子を見るために来たそうだ。そこで執事は警部かなんかに、こういう人が大臣に会いたいと言って来ていると言ったから、警部が会って聞いた。すると、
「実はじきじきにお話したい。というのは、伊勢の事件と、何か森さんが演説をした、それがために生徒が非常に激昂して、途中に擁して暗殺するという企てがある。それをお知らせ申そうとやって来た」と話した。
それは大変だというので、警部は外へ出てすぐ表門から出ないで、裏から出て行くというふうに注意して、その男を放っておいた。さあ出かけるというので森さんが玄関へ出ると、向こうから戸を開けて、ズカズカと出てきて、
「あなたが森さんですか」
「うん、そうだ」と言うと、そのまま抱えて小倉の袴のところに隠した出刃包丁で殺った。えぐろうとしたところを、お付きの剣道の達者な男が首を落としてしまった。
森先生はすぐ傍らの左の方の西洋便所の中に入って、錠を下ろしてしまった。それで、その騒ぎが宮中に知れたものだから、式が済むと皆駆けつけた。大学のお医者なんかも来る。吾輩が行ったときには、森さんの人工呼吸をやっていたが、どうしてもだめだった。
英学塾共立学校のこと
英学塾共立学校は、佐野という加州の人で、のちに印刷局、前の造幣局の造幣頭だった人が、始めたものだ。安いもんだ。東京市中で、一番高いところで、坪二十五銭。そこでその佐野さんが、加州藩の御用達をしていた辻金五郎——この人は下谷にずいぶん地面を持っていて、旧幕時代は盛んなものだった——この人らに相談して、学校を建てるために神田淡路町で土地の払い下げを受けた。そして明治三年、外国人などを雇ってやり出した。高田早苗博士などは、その時代の共立学校の生徒である。ところが収支償わなくなったので、とうとう休校した。
<以下省略>
ヴァン・リードは、
『丁度好い、自分の両親は現在桑港(サンフランシスコ)にゐるが、自分は日本に来てゐるし、一人の、弟は軍人で目下ワシントンに住んでゐるので、非常に淋しがつてゐる。それで、その二人の予供は自分の方で引受けて、親に世語をして貰うことにしよう』
といひ出した。大童(だいどう)さんもさうなりや大変に好いと大に悦び、私も祖母も、それで安心して一切のことはヴアン・リードの両親に頼むこととなり、我々の旅費や学費は藩の方から直接ヴァン・リードに渡してしまつた。
かやうにして、船出の日も段々とと押迫って来たある日のこと、祖母は私を膝近く呼んで一振りの短刀を授けていふのには、
『これは祖母が心からの餞別です。これは決して人を害ねるためのものではありません、男は名を惜むことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬ事があるかも知れぬ、その萬一のために授けるのです』
といつて、懇ろに切腹の方法まで救へてくれた。また仙臺藩の物書役をしてをつた鈴木諦之助という人は、
大海の外もの國に出づるとも我が日の本のうちな忘れそ
と一首の歌を餞して私を勵してくれました。この歌は周ずに認めてあつたが、磁ばよき批減③フォロアーに感謝
⑤昭和に出会える絵本や博物館
ヴァン・リード評について 島岡 宏
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10493903_po_ART0001763752.pdf?contentNo=1&alternativeNo=海外に渡り活躍した日本人 http://www.yunioshi.com/japanesepersons2.html
人名索引:幕末明治海外渡航者と百官履歴 - Google ドライブ
From Slave to Jap Premier | Maclean's | JUNE 1, 1922
DeepL翻訳をコメント欄に記載しました。
日本の命運を握る男の波乱万丈な経歴
1922年6月1日
奴隷から日本の首相へ
日本の命運を握る男の波乱万丈な経歴
NEW YORK WORLD
最近、日本の首相に任命された高橋是清の経歴は、浮き沈みが激しく、興味深いものでした。"From Slave to Premier "という見出しは、日本の多くの新聞がこの任命を発表する際に使ったものである。
「1854年、貧しい武士の長男として生まれた高橋是清は、すぐに苦学生としてのキャリアをスタートさせた」と作家は言う。
「彼は、あるアメリカ人と知り合いになり、彼にアメリカでの日本の先駆的な学生になるチャンスを与えようと親切に提案した。彼はその機会を得たが、後になって、自分は恩人の家の学生ではなく、主人の家の使用人になるのだと知った。いわゆる友人からアメリカ行きの航空券を受け取ったことで、彼は事実上、自分を奴隷状態に売ったことになる。日本の見出しの最初の部分が言及しているのは、このアメリカでの隷属の期間である。しかし、辛抱強く奉仕することで、次第に主人に気に入られ、主人は少しずつ彼に勉学の時間を与えてくれるようになったのである。
「明治4年(1871年)、岩倉具視が第一次遣米使節として渡米し、是清が長年求めていた機会が訪れた。是清は皇太子の通訳となり、すぐにその役割を果たすことになった。アメリカに長く滞在していたこともあり、日本国憲法の制定者として有名になり、現在は第4代党首となっている世立会派の初代党首である伊藤公爵の秘書よりも役に立った。
「この成功を励みに、若き日の是清はようやく日本に帰ることができた。しかし、横浜に着いてみると、日本は政治的に混乱していて、上陸しても敵対する藩の兵士に殺される危険があることを知った。アメリカに長く滞在していたおかげで、彼は簡単にカウボーイになりきることができた。帽子を片方に寄せて、大きな声でアメリカの歌を歌っていた。税関職員が彼を調べ始めたとき、彼はあまりにも軽々しく答えたので、何を言っているのか理解できず、そのまま通過させてしまったのである。こうして彼は無事に税関を通過したのである。
"TOKIO "に戻って、絶対的な貧しさに何度も苦しめられた。
「誠実な性格を買われて、ドイツ人技術者からペルーの銀山開発のための会社を作るように言われた。彼は職を辞して、ペルーの銀山を開発する会社を設立した。
日本の人々は、彼が名前を出した事業には簡単に多額の出資をしてくれたからである。凱旋した彼は再び太平洋を渡り、ペルーに定住した。しかし、彼のドイツ人開発者は、アメリカ人開発者と同様に不誠実であった。この銀山は、何年も前に放棄されたものであることが判明したのである。彼の新世界での2回目の経験は、1回目よりもはるかに悪いものだった。信頼していた同国の人々が出資した資金をすべて失ってしまったのだ。彼は、成功の頂点から借金の穴に落ちてしまったのだ。
「是清は40歳を過ぎて日本に帰国したが、莫大な借金の返済の目処が立たず、家族を養うのがやっとの状態であった。しかし、この時も彼は勇気を失わなかった。
「ある日、日本銀行の頭取がレストランで食事をしていると、奥まった場所にとんでもない風貌の男がいることに気がついた。その目を見て、社長は「この人はすごい人だ」と感じた。ヘは彼と話をして、最終的には新銀行舎の建設に携わる職人たちの先頭に立たせることにした。それが高橋是清(たかはし これきよ)である。
「建物が完成して間もなく、銀行の副頭取になったと聞いて、日本中が驚いた。以前、生活に追われていた頃、余暇を利用して特許制度の研究をしていたように、職人監督としての余暇を利用して経済・金融の研究をしていたのである。やがて彼は、世界最大級の為替銀行である横浜正金銀行の頭取に就任した。
「日露戦争の資金調達を目的とした初代駐米・駐欧財務長官としての素晴らしい功績により、男爵に叙任され、日本銀行総裁に就任しました。
「その後、彼は実業界を退き、政界に進出した。第2代党首・サロンジ侯爵のもと、世竜会内閣の大蔵大臣として手腕を発揮し、真の政治家であることを証明したのである。
「原首相(第13代党首)と同じ内閣で、2度目の大蔵大臣に就任した。第二次世界大戦終了後、子爵に昇進した。192年11月、首相に指名され、第4代雪友会会長に選出された。現在も大蔵大臣の職にあり、一時的に海軍大臣を兼任している。"