高かったですけど、読み応えありました。
イザベラ・バード「日本奥地紀行」高梨健吉(高梨 健吉(たかなし けんきち、1919年11月24日~2010年3月20日)は、日本の英語学者、慶応義塾大学名誉教授。山形県生まれ。東京文理科大学英文科卒。日本英学史の重鎮として活動、慶大教授を務め、多くの著訳書を出した。バジル・ホール・チェンバレン『日本事物誌』を初めて訳し、チェンバレンについても研究した。1984年慶大を定年退職し名誉教授 wikipedia転載)訳(平凡社ライブラリー)を勝手に修正。平凡社さん、高梨さんごめんなさい。
第4信 江戸 英国公使館 6月7日 「伊藤の登場」
横浜まで山手のヘボン博士夫妻を訪ねて、そのまま一週間滞在した。香港のバードン監督夫妻もヘボン博士の客となっていた。遥か東洋の異国の地で母国語で話せる相手がいるのは凄く楽しいことだ。
横浜では江戸で見る貧相な日本人とは全く違った種類の東洋人を見ることができる。それは中国人だ。日本に居住している中国人は2500人だが、そのうちの半数以上が横浜にいる。もし、彼らを日本から追放するようなことがあれば、横浜での商業活動はすぐに機能停止してしまうだろう。いずれの地でも同じだが中国人は商業活動にとって必要欠くべからず民族といえる。
彼は威勢の良い足取りで、下手をすれば自惚れた様子で街を闊歩している。自分が支配者階級に属しているかのような堂々とした歩き方である。彼は背が高く、大柄で、衣服を重ね着して見栄えの良い錦織の上着を羽織っている。繻子(繻子織:縦糸と横糸とが交差する点が連続することなく、縦糸または横糸だけが表に現れるような織り方 。繻子とは繻子織りにした織物。帯地・半襟・洋服地などに用いられる。サテン)のズボンは、外側からは見えないが踵のところでぎゅっと締めている。
黒色の繻子製の高い靴は、つま先でくるりと上側に折り曲げてある。中国人は特徴のある衣服のおかげで実際よりもずっと背が高く見える。髪の毛は弁髪で、大部分を剃り、後頭部で膝まで届くような長い髪を束ねている。頭には同じ繻子製の硬い頭巾をかぶっている。この頭巾なしの姿を見ることはできない。彼の顔は黄色で、長くて黒い眼と眉毛はつり上がっている。髭はなく皮膚は滑らかに光っており、裕福そうに見える。私に不愉快さを感じさせるものではないが、彼が醸し出す雰囲気は「私は中国人だ」と人を見下している雰囲気を感じる。
商館で何かを尋ねたり、金貨を札に両替したり、汽車や汽船の切符を買ったり、店でつり銭を貰ったりする際には、必ずと言って良いほど中国人が姿を現す。街頭では多忙な顔つきで元気よく通ろ過ぎるし、人力車に乗って急いで通る時には商売に熱中している時だ。
彼は生真面目で信用できる。彼は雇い主から金を盗み取るのではなく、搾り取ることで満足するようだ。人生の唯一の目的が金銭なのだ。このために中国人は勤勉であり、忠実であり、克己心(自分の欲望をおさえる心。自制心)が強い。だから当然の報酬を手にすることができるのだ。
私は召使兼通訳ができる日本人を募集した。そのことを知った数人の新しい知人が、親切に心配してくれた。そしてその心配は的中した。多くの日本人がその仕事にありつこうとして面接にやって来たのだが、通訳として達者な英語力が必須条件であるにも関わらず面接にやって来た日本人の多くは発音が下手で、英単語を適当につなぎ合わせたカタコトで十分な資格があると思い込んでいたのだ。
「英語は話せますか?」「はい」「給料はどのくらい欲しいですか?」「月に12ドル」…誰もが、ここまではいい。条件に関しては流暢に話すのを聞き、私は希望が持てそうな気がしたものだった。
ところが違った。続けて「どのような方(外国人)の家に住んだことがありますか?」と聞くと、多くが聞きなれない外国人の名前をあげてデタラメを言うのだった。さらに「今まで旅行したところは?」この質問に関しては日本語で聞いた。すると「東海道、中山道、京都に日光です」と答える者が多かった。これは当然で、いずれも日本人の誰もがよく出かけるところだ。これでは話にならない。
私はこれから日本の北の奥地に向かおうとしているのだから、その知識がある者でなければならない。彼らに「北部日本や北海道に関して知っているか?」と聞くと、大半の人間が「いいえ」と気の抜けたような表情で答えるのだった。この段階までくると、同情したヘボン博士が通訳を代わってくれる。彼らの英語力は底をついてしまったからだ。
しかし、それでも3人だけは有能に思えた。
一人は元気の良い青年で、明るい色のツイード地の仕立ての良い洋服を着てやって来た。カラーは折襟で、ネクタイにはダイヤのような石が入ったピンを付け、糊の効いた白いシャツを着ていた。糊が効きすぎて硬くなったシャツではヨーロッパ風の軽いお辞儀すらできそうにない。金メッキの時計鎖にはロケットを付け、胸ポケットからは真っ白で上質そうなカナキンのハンカチが見える。さらにステッキを持ち、ソフト帽をかぶるという念の入れようで私は背筋が寒くなった。糊の効いたシャツはこれからの日本の奥地旅行では絶対に味わえない贅沢となるだろうから。
この格好で奥地に出かけたとしたら、いたるところで物価を高くされてしまう。こんな見栄坊に同行されたら常に難儀を強いられることになるだろう。しかし、この男が第二の質問で英語が口から出なかったとき、私はほっと胸をなで下ろしたものだ。
二人目は立派な顔つきをした31歳の男性で、質の良さそうな和服を着ていた。しっかりした推薦状を持参しており、話す英語も初めのうちは期待が持てたが、実際には英語をほんの少ししか知らなかったようだ。
彼は裕福な英国人の官吏に仕えた料理人だった。彼が仕えた英国人は大勢のお供を同伴して旅行するようで、さらに旅先には事前に召使を派遣するという習慣が彼の身に染み付いていた。私が「今回の旅には男性主人もいないし女中もいない」と言うと、彼は非常に驚いた。結局、彼を雇うことはなかったが、彼が断ったのか私が断ったのか覚えていない。
三人目はウィルキンソン氏からの紹介で、質素な和服を着た男性で、率直で知的な顔つきをしていた。ヘボン博士が日本語で彼と話した時に「私は他の連中よりは英語を知っている。緊張していなければ、知っていることも口から出るのですが…」と話していた。確かに彼は私の言うことを理解していて、あまりに優秀なので「彼が私を差し置いて旅のリーダーになってしまうのではないか?」
という疑念があったものの非常に好感が持てたので、彼を雇うつもりでいた。
そんなところヘボン博士の召使の一人と知り合いだという男性が推薦状も持たずにブラリとやって来た。彼は18歳だったが、私たちの成人男子に匹敵するほど大人びていた。身長は4フィート10インチ(約147センチ)で、がに股だが肉体的には均整が良くとれていて強壮に見えた。顔は丸くて異常に平べったくて、眼はぐいっと切れ長で、瞼が重く垂れていて日本人の特徴を滑稽化したようだった。ただし、歯並びだけは良かった。私はこれほどまでに愚鈍に見える日本人を見たことがない。しかし、時折、盗み見するような素早い目配りを見ると、彼が愚鈍だという私の考えは間違っているかもしれない。
彼は米国公使館にいたことがあり、大阪鉄道では事務員を勤めていたと言う。肝心の日本北部の奥地の知識に関しては、太平洋側のコースを辿って北部日本を旅し、蝦夷(北海道)では植物採集家のマリーズ氏のお伴をしたと言う。植物の乾燥方法も知っているし、多少の料理もできるようだ。英語も書けるし、一日に25マイル(約40キロ)歩ける。日本の北部奥地に関しては何でも知っていると言う。推薦状に関しては「父の家で火事があって焼けてしまった」と嘘のような本当のような弁解をするので、私はあまりにも模範人物的なこの男性の経歴に関して信用できずにいた。植物採集家のマリーズ氏も手近にいないので、彼の話が本当かどうか確認するわけにもいかない。はっきり言って、私はこの男性が嫌いだった。
しかし、彼は私の言葉を理解し、私も彼の話す英語が理解できた。一刻も早く旅行に出発したいと思っていた私は、仕方なく月給12ドルで彼を雇うことにした。彼は非常に喜んで契約書を書くために帰ったが、まもなく契約書を持参して戻ってきた。そこには「約束の給料に対して、神仏に誓って必ず忠実に仕える」と書かれていた。私たちは判を押し、署名をして正式に契約を交わした。次の日、彼がやって来て「ひと月分の給料を前払いして欲しい」と言うので不安に思ったが12ドルを渡してやった。ヘボン博士は「あの男は2度と姿を見せないかもしれないね」と言った。
契約を交わしてから私は「騙されたのではないか?」と不安にかられていたが、彼が約束の時間に姿を見せたので、シンドバッドの背中にとりついて何日も離れなかった「海の老人(海の妖怪。海坊主。日本のおんぶおばけのようなもの)」が私の背中にとりついたのではないか?と感じるようになった。私の不安は払拭されたが、彼はまさしく海の老人のようだった。
彼は猫のように音もなく階段を駆け上がったり廊下を走ったりする。私の身の回りの品物がどこに置いてあるのかも知っている。落ち着いていて、何を見ても驚かないばかりか当惑もしない。ハリー・パークス夫妻に会うと深々と頭を下げる。彼は公使館がまるで自分の家であるかのように完璧な動きをするのだ。ただ一つだけ、メキシコ式の鞍と英国式の馬勒の付け方を護衛兵の一人に教えてもらっただけだ。
そして彼はあっという間に私の旅行の最初の3日間の準備を整えてしまった。彼の名前は”伊藤”と言う。これから彼について書く事が多くなるだろう。この先の3ヶ月間、彼は私の守り神として、またある時には悪魔として、私につきまとうであろうからだ。
伊藤というのは伊藤鶴吉という。Wikipedia「伊藤鶴吉」から引用する。
伊藤 鶴吉(いとう つるきち、1858年1月31日(安政4年12月17日)~1913年(大正2年)1月6日)は、明治時代に活躍した日本の英語通訳者。死去時の新聞報道では「通弁の元勲」と評されている。
相模国三浦郡菊名村(現・神奈川県三浦市)の生まれ。横浜で外国人から英語を学び、1877年より横浜で通訳業を始める。1905年、アメリカの実業家エドワード・ヘンリー・ハリマン来日の際(このとき桂・ハリマン協定が結ばれた)に通訳を務め、その働きぶりからハリマンが経営する鉄道・汽船の一等乗車券をプレゼントされた。またマイソール王国王子、バローダ王国国王などが来日した際も通訳を務めた。イザベラ・バードの日本旅行でも通訳を務め、『日本奥地紀行』にもその名が記載されている。日本初のガイド組織「開誘社」の設立にも関わっている。1913年1月6日、胃癌により横浜市松影町の自宅で死去。享年54。葬儀は蓮光寺で行われ、根岸の墓地に埋葬された。戒名は「凌雲院繹鶴集居士」。