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サンフランシスコ在住時代の明石順三について

2021-10-04 21:45:58 | 興味深い話題

ロサンゼルス日系新聞社「羅府新報」で働く人たち

サンフランシスコ在住時代の明石順三(1889年明治22年7月生まれ)

一九〇八年二月、十八歳の明石順三はようやく渡航費の工面ができ、旅券もとれたので、日本郵船の五千トンあまりの貨客船丹後丸の三等船客として、アリューシャン諸島経由の大圏コースをとり、厳寒の季節の北太平洋を渡った。鼻をつくペンキの異臭と、もっそう飯に似たまずい食事と、なによりも寒さに苦しめられて、電球で暖をとるようなさんざんな航海であった。

 それでも、ずんぐりと小柄ながら向っ気がつよく、らいらくな順三は、友人の長沼重隆らと『金色夜又』の仮装芝居に出演を楽しむなどして、三週間目にアメリカのシアトルに着いた。そこからは郵船の特別の配慮でアメリカの汽船に乗り移り、サンフランシスコまで無賃で運んでもらった。

サンフランシスコに着くと、乏しい渡航費はもう消えていた。順三は翌日からすぐにも働かねばならなかった。が、そこに待ち受けていたのは、日本で雄飛を夢みていたような自由の天国ではない。

すでに大陸横断鉄道建設の際、中国人労働者の労働ダンビング問題がおこって以来のいわゆる“黄過説”がくすぶっているところへ、明治以後渡米した日本人の労働ダンピング問題もからんで、一九〇七年にはアメリカの両院は日本人の移民制限法案を可決し、排日運動も吹き荒れて、黄色人種に対する人種差別は厳に存在していた。しかも、アメリカで孤立する日本人に対して、日本の政府機関は適切な救済策を講じることをしていなかった。一口にいって、在米の日本人たちは “棄民“の状態におかれていたのである。

したがって邦人たちは彼らだけで連帯する必要にも駆られていた。けれども渡米したばかりの身よりのない少年はその仲間にさえもすぐには入って行けない。まるで無宿者に近い生活にも落ちこみかねなかったのである。後年の彼の国家あるいは政府というものへの不信は、基本的にそうした棄民の状況のなかで萌芽をみたものであったかもしれない。

働く必要に迫られた明石順三がありついたのは、デー・ワーク day work と称するいわゆる日傭の仕事であった。サンフランシスコなどの市街にはデー・ワーク専門の職業幹旋所があって、そこへ行くと電話申込のあった仕事先を紹介してくれる。仕事の種類は皿洗い、ペンキ塗り、薪割り、芝刈り、スクール・ボーイと呼ばれる米人家庭に住み込んでの使い走り、それにカリフォルニア一帯の果樹園や農園の手伝いなどで、賃銀は大体一日二ドル(当時の邦価に換算すると四円)であった。

明石順三は、まずカリフォルニアの鉄道や農園で労働をし、後にはサンフランシスコの米人の家でスクール・ボーイをして働きながら、かたわら読書につとめたらしい。いっしょに渡米した友人たちのなかには実家の裕福なものもすくなくなく、ハイ・スクールやカレッジに入学したものもいたが、順三は経済的な事情のほかに、学校の画一教育は規格品としての人間をつくるだけで個性の十全な発達をそこなうという独特の考えから、サンフランシスコの市の図書館に通うなどして、独学の道を選んだ。そして、原書、日本語の著書を問わず多くの本を読み漁り、博覧強記というか、広く多方面な知識を得ていた。文学書も読み、とくにイプセンやショーの戯曲を愛好して、自分でも戯曲の習作をいくつか書いた。

邦人経営の書店には、日本から『明星』『スバル』『三田文学』などの文芸雑誌も送られてきていた。それらの雑誌を受読し役稿もする長沼重隆や、田村俊子の夫となった田村松魚らの文学青年仲間と集まって議論するのも楽しみの一つだった。盛んな排日気運に抗して、順三はイプセンやショーの社会劇を論じて気焔をあげた。社会改革めいた考え方もそのころの彼のなかにきざしていたようである。

順三は文学仲間の友だちには「酒や女を恐れていて文学ができるか。道楽もしなくてはだめだ」といった激励の仕方もしたぐらいで、無神論者的傾向もつよく、宗教には関心を示さなかった。ただし、順三自身は酒もあまり飲まず、道楽には縁遠く、労働のあいまにひたすら読書に耽った。そして、邦字新聞への投書、投稿が機縁となって、一九一四年(大正三年)、ロスアンゼルスの邦字紙 『羅府新報』のサンディエゴ支社の記者となることができた。

そこで順三は社会部記者として習練を積み、まもなく健筆を認められてサンフランシスコの日米新聞社に移り、社会部のデスクとなった。『日米新聞』は当時アメリカでは最大の邦字紙で、後に『朝日新聞』の記者となり『週刊朝日』編集長もした翁久尤(おきなきゅういん)や、『東京日日』(現『毎日新聞』)の論説委員や学芸部長となった新妻莞爾も、順三とともに同紙の記者をしていたことがある。また、サンフランシスコで 『日米新聞』の対抗紙だった邦字新聞 『新世界』では、順三より一年あまり前に渡米した清沢冽が、ほぼ同時期に記者や編集長をつとめていた。

もともと正義感の強い明石順三にとって、社会正義を標榜するジャーナリストの仕事は、性に合っていたといえよう。実際、順三は筆も速く、語学の勘にもすぐれていたから、『エグザミナー』や『クロニクル』などアメカの有力紙の記者に伍して活躍し、とくに一九二一年(大正十年)の海軍軍縮ワシントン会議や、二年後の関東大震災のときには、日米間の通信の面でも貢献し、外人記者問に評判の高い記者として終始したそうである。

その一方では、彼は在米邦人のための“写真結婚“の欄を担当して独身者の便宜をはかった。

写真結婚というのは、主に在米邦人の独身青年が現地で見合うべき女性の数がすくないので、日本から花嫁希望の女性たちの写真を送ってもらい、それによって結婚相手を探し、婚約・結婚にまでいたる仕組みである。そうしてきまった婚約女性が船に乗っていよいよサンフランシスコの港に着くと、ハシケで船に先乗りし、“花嫁到着”の第一報を報道する仕事も彼はきさくによろこんでやっていた。そのような庶民的な気風も彼のものであった。(稲垣真美氏の著作より引用)

註)日米新聞社長、我孫子久太郎氏の印象 写真結婚禁止事件の記憶 明石順三が書いた記事

(岡繁樹の依頼で、写真結婚廃止で揺れた1918(大正7)年前後のサンフランシスコの日系人社会の状況と、我孫子久太郎の思い出について書いたもの。UCLA所蔵のOKA PAPERSの中に保存されている)

 当時の総領事は太田為三という人。凡物で外務官僚の臭みが強い人だった。米国人とはあまり接触せず、毎日下町の総領事館の自室に立てこもっているというわけで、外部の状況にうとく、視野が狭い。のちにソ連大使になったときいて唖然とした。そのころは日本人移民の入国は禁止されていて、ごく少数の写真結婚の婦人が入国していた。そのころ排日土地法案が上程されそうな雲行きだったが、これを阻止するための交換条件として写真結婚を自主廃止するという案をこの男がたてた。これは、若い日本人が配偶者を得る道をまったく閉ざすという意味でゆゆしき大問題であった。それをたんなる一外務官僚の思いつきでやってしまうのだから、外務省の無能無策ぶりがわかるであろう。

  日米新聞は(明石氏は当時日米新聞の記者)当初から反対の論陣をはったが、新世界はでおくれたせいか賛成に回った。

 太田は当初手をこまねいていたが次第に反撃を開始、国の方策に従わないものは非国民だ、といって圧力をかけてきた。当時は官憲崇拝のこと盲目のごとくの事大主義者も多かったので、予断は許されなかった。その当時、太田側には明石を殺してやろうという計画もあったという。当時私はサンフランシスコ西方の砂丘の上に一戸を構えていたが、夜車で帰ってくると無防備に近い状況になるので、隣家の米人にたのんでその家の裏に車を止め、塀越しに帰宅していた。あとになって、「おまえを殺してサンマテオの海岸に埋めてしまう計画があって、一週間ほど待ち伏せしたが見つからなかった」という話を笑いながらされたことがある。我孫子氏も心配してくれて探偵局に頼んでボディガードをつけてくれたりした。

 

 安孫子久太郎:1865 (慶応元) -1936(昭和11)

新潟県北蒲原郡水原町に生まれる。生後7日で母と死別,母方の祖父安孫子胎堂のもとで養育され,蟻燭や紙の行商を手伝う。17歳の時,「徒手空拳」を振るうべくアメリカを目指し離郷。志し達せず,東京で数年間を過ごすが,この間,仏学塾(中江兆民),漢学塾(三島三洲),英学墊(矢野文雄)に学び,1883(16)には京橋区肴町教会で洗礼を受けている。1885,20歳の時,サンフランシスコ福音会の修学生として渡米,書生として働く。「ジャパン・ヘラルド』(→「桑港日本新聞)及び『北米日報』(「ハイト青年会」機関紙)を買収,合併し,1899年「日米新聞」を創刊。その成功・興隆とともに,安孫子は「新聞事業家」として,排日運動批判・「土着永住論」の展開等その理想像を追求した。「ヤマトコロニー」(1906年建設)をはじめとする3ヶ所の理想郷は今日も存続している)。余奈子夫人は,津田梅子の末妹で,安孫子の死後も,戦争による停止の日まで『日米新聞』を発行し続けた。

 

 日米の移民政策における「写真花嫁」の位置づけ

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjqy8DY5rDzAhVXyYsBHa2BBs04ChAWegQICBAB&url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F295359833.pdf&usg=AOvVaw19jDed2uAgzcr1DdNTIaOF

 

太田 為吉(おおた ためきち、1880年(明治13年)11月12日[1][2] - 1956年(昭和31年)11月30日[3])は、日本の外交官。駐スペイン公使、駐ソビエト連邦大使。「大田」と表記される場合がある[4]。 

経歴

鳥取県気高郡青谷村(現在の鳥取市)出身[5]。1901年(明治34年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業[5]。1903年(明治36年)に高等文官試験に合格し、1907年(明治40年)に外交官及領事官試験に合格した[1]。領事官補として香港に勤務し、関東都督府事務官、ニューヨーク領事官補、アメリカ合衆国大使館三等書記官、メキシコ公使館二等書記官、サンフランシスコ総領事(1918-1921)、オタワ総領事、中華民国公使館参事官を歴任した[1][6]。1925年(大正14年)、駐スペイン公使に任命され、駐ポルトガル公使を兼ねた[1]。1932年(昭和7年)、駐ソビエト連邦大使に就任した[6]。退官後は東亜興業株式会社取締役を務めた[7]。戦後は日本大学校友会会長を務めた[5]。 

写真結婚廃止案を操つる黒い影

 

親日を看板にする米人や一派の日本人に誑られた太田総領事

在米邦人問題の真相

 
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(39-034) 大正日日新聞 1919.12.15 (大正8)

写真結婚廃止問題から在米日本人社会に問題勃発し目下鼎の湧くが如き実情を呈している事は朝刊記載の通りであるが事の起りは去る十月下旬桑港に於ける在米日本人会参事員会が写真結婚廃止の決議を通過したるのみならず同会の名を以て右桑港のクロニクル、エキザミナーに決議文を掲載したのが少からず在留民社会を驚かした何となれば彼等の多くは此の写真結婚の方法に依って初めて万里の異域に家庭を作りたるもの又は今後之に依りて家庭の楽みを享受せんとの希望を有する者だからである該決議反対の急先鋒となり猛烈なる反対運動を起したのは安孫子久太郎氏の率ゆる邦字新聞「日米」で加州に於ける排日騒ぎが其由来する所深く所謂写真結婚禁止の一事丈けで緩和する事が出来るなどと思うのは既得権利を抛棄する愚策であり又余りに排日常習犯の咆吼に狼狽した造り方である殊に斯の如く事苟くも在留民全体の利害休戚に関する大問題を在米日本人会参事会という少数者のみで取り極めるというは甚だ専断越権の処置である仮りに此の如き決議を為す必要があるならば桑港総領事館官内各地に散在する三十八の日本人会代表者より成る在米日本人会代表者会に諮り更に之を南加州、オレゴン州、華盛頓州、加奈陀各地の日本人会より成る太平洋岸連合日本人会に相談した上で兎も角もなすべきである是れは単に桑港総領事館管内に居る日本人の利害に関係ある許りでなく惹いて米国及び加奈陀在に留する日本人全体の運命に至大の関係を有するからであるという論拠に立ち在日参事員会に対し猛烈なる攻撃を継続し同参事員は宜しく其の失態の責を引いて辞職せよと迫った輿論は日を追うて囂々去月二十二日迄に反対決議を通過せる日本人会三〇臨時代表者会を要求せるもの三在留民大会を開き反対せるもの八保留又は不同意決議を為せるもの四の多きに対し条件附賛成の日本会僅に一という状態を呈するに至った此の形勢を見たる在米日本人会は十一月十七日弁明書を発表し(前略)「加州に於ける排日の機運形勢最近逆転し来り日本人問題に関し我等が慎重なる調査を遂げたる結果より断ずるに今にして機宜の処置に出でざるに於ては禍意外に重大なる方面に及ばんも測り難き傾向あり殊に非難多き写真結婚に関しては識者の見る所凡て速に之に関し何等かの処置を講ずるに非ざれば日本人問題審議を目的とする臨時州会招集の口実動機たる恐れありというに一致す若し臨時州会にして開会せられんか吾人の発展に致命的打撃を加う可き借地権剥奪其他重大事の議決通過を見る事予想するに難からず殊に過般婦人参政権問題に関し開会せる臨時州会の形成推移に対し至大の注意を払える結果我等は臨時州会の招集を俟つに及ばずして右の希望を発表するの緊要なるを痛切に感じ右の希望声明決議を為せる至大なり」云々と述べ右は希望声明丈けで之が実行には故国政府に対し徴兵延期、再度航期限延長、未婚婦人渡航等の運動をする必要があるから今直ぐに実行するという意味でないと弁解大に努めた同時に「日米」と対立する他の邦字新聞「新世界」は主筆二宮氏が在米日本人会の参事員であり該決議通過に参画した一人である関係と一つは商売敵たる日米新聞に対抗の必要から是又盛んに在米日本人会弁護の筆を振い日米紙は在米日本人会を破壊し安孫子社長が同会に対する平生の鬱憤を晴らさんとするものだと攻撃を続行した然し一般の輿論は該決議反対に傾いて居るから十一月二十九日に開かれる事になった在米日本人会臨時代表者会にては無論該決議の無効を議決し写真結婚廃止決議を態々英語に翻訳、英字紙上にまで発表した参事員会の人々は連袂辞職をした事に思われる尚在米日本人会参事員会は同決議を通過したのは外交上非常に重大な事件がある為めで日本の外務省から桑港の太田総領事に内訓があった結果である様に称して居るが桑港以外の太平洋岸駐在の領事は何れも口を揃えて「桑港は知らず我々は其んな内訓を受取った覚はない写真結婚は理想的方法でないから漸次時制することは望ましいが今急に進んで廃止したり廃止の声明をする程の事はなかろう」と公言して居る而して事実の真相は太田総領事が周囲を取り巻く親日という看板に依って衣食して居る依体の知れぬ米人や米国人の言に迎合する事のみに急なる一派の日本人の報告に驚き今にも排日案討議丈けの為めに臨時州会が開かるるものの如く信じ写真結婚の禁止を在米日本人会に決議させ之を英字紙を通じ米人に知らせさえすれば排日問題は全然緩和さるるものと即断し深謀遠慮なき参事員を所謂外交上の重大事件で威しつけ以て該決議の通過を計り在米日本人社会をして空前の騒擾に陥らしめたのであると一般に観測されて居る


データ作成:2012.4 神戸大学附属図書館

 

 翁久允:1888(21)-1973(昭和48)

富山県中新川郡六郎谷に,漢方医翁源指の二男として生まれる。幼少より父に漢籍を学ぶ。富山県立一中に入学するが放校処分となり,1905(38)上京し順天中学に編入学する。折りからの渡米熱で1907年渡米,シアトルで日雇労働を続け,1908,20歳でシアトル近くプレマートンの小学校を卒業した43)1909年『旭新聞』(シアトル)の新年小説に二等入選,新聞小説への投稿時代が始まった。1909年秋には,翁の提唱で「シアトル文学会」を結成,多くの文士と交流を重ねた。1915年「桜府日報』スタックトン支社主任,1917年「日米新聞』オークランド支社主任を歴任し,1924(13)帰国。帰国後は『東京朝日新聞」社に入社,「週刊朝日」編集長として内外の文化人と接触を持った。自らも「中央公論』『改政造』『新潮』等に,アメリカ時代の体験を基にした「移民地文芸」を発表した。「日本精神の源流を求めて郷土研究に打ちこもうと発心」し帰郷,1936(11)9,郷土研究誌『高志人』を創刊した4。自伝「わが一生』を含む,コスモポリタン翁の膨大な著作は,下掲500『翁久允全集』に収録,また1万数千冊の蔵書は富山市立図書館に寄贈,公開されている45)

 

明石順三のアメリカ時代からの友人、彼の郷土研究誌「高志人」に順三は戦後、多数寄稿している。


日系アメリカ移民一世の新聞と文学 -その2 - ディスカバー・ニッケイ

 

  清沢冽:1890(23)-1945(昭和20)

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サンフランシスコ在住時代の清沢冽について - WTCL

清沢冽・その人となり清沢は、一八九〇(明治二三)年二月八日、長野県南安曇郡北穂高村青木花見(あおけみ)で、村長に推されるほどの裕福な農家の三...

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長沼 重隆(ながぬま しげたか、明治23年(1890年)1月17日 - 昭和57年(1982年)9月6日)

長沼 重隆は、越後国西蒲原郡道上村(元中之口村、現在の新潟市西蒲区)出身の英文学者、翻訳家。県立新潟女子短期大学の創立時には英文学科教授として迎えられた。特にアメリカ合衆国の詩人ウォルト・ホイットマンの研究や翻訳で知られている。 

落葉の如く (先駆芸術叢書 ; 5) ジュゼッペ・ジアコザ 著, 長沼重隆 訳 金星堂,大正13

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000602578-00

 

初期日本人渡米史における学生家内労働者

第1回 19世紀のシアトルと日系移民 - ディスカバー・ニッケイ


 


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