2016年1月31日に、最愛の祖母みつ子が亡くなりました。
日常に会うのは意外と当たり前ではなく、中々会えない事が多いとは思いますが、生前はホントによく電話して話してました。サラリーマンではないおいらは週に一度とは言いませんが、しょっちゅう真昼間に千葉の叔母の家に住むおばあちゃんに電話して話してましたね。産まれてからずっと可愛がってくれたおばあちゃんの事を思い出すと今でも涙が出ますが、95歳と大往生だったかと。晩年でも、ギリギリまでよく食べていて、造血出来ない病気になるまではパクパクお肉とかも食べていた。この写真、2015年12月30日に千葉でゴルフした後ですが、ちょうど亡くなる一ヶ月前。この後一ヶ月後に亡くなるなんてね。寂しすぎる。
寂しすぎるけどさ、仕方ないよね。。
いずれこう言うタイミングが来ることは分かっていたのだけど、もう少し後だと思っていた。亡くなるタイミングで、千葉の叔母の家に泊まっていて、最期を看取れたのは良かったと思える。ホントに可愛らしいおばあちゃんだったんだよね。誇りに思う。悲しいけど、おばあちゃんは亡くなり、、、
ずっと忘れないんだ。
だから、正直、今年は喪中で来年はそうではないとか、どうでも宜しく...。年賀状なんて高々明治期に郵便制度が出来てからの話で、郵政の財務強化の為にやってるんだと言うのなら、喪中とかホントどうにでもなりやがれ!って感じです。今どきメールやFacebookで年の挨拶を済ませる人いっぱいいるけどさ、日本だけの習慣をどう説明するのかね、海外の人に?!おいら、見てみたらFacebookでは1,300人以上繋がっていたけど、2割以上は海外の人。あいつは何故新年に何も言わないの?ってなりそう。勉強不足でよく分からないけど、Italiaでも身内が亡くなったら新年の挨拶はしないかね?Englandでもそうかしら?長く住んだ事があるのはその2つの国しかないけど、Buon annoって言わないかね?勿論、年賀状なんてシステムは恐らくあっても儒教思想の国くらいだろうから?ItaliaやEnglandにはない。あるとすればXmas cardくらいな訳で。身内が亡くなったらXmas cardは出さないとか、は聞いたことないしなぁ...。そもそもそこはcardとはリンクさせてないだろうけど。
年賀状で挨拶をすることが馬鹿馬鹿しいとは言いません。
が、喪中葉書とかって、誰が考えた訳?極めて不合理な仕組みと言うか、年賀葉書の代わりに葉書を買わせる為のものとしか思えませんな。自宅の玄関に『忌中』と貼り紙するのは聞いたことあるし、時代劇とかで見たことあるけどさ。喪中葉書って...。玄関に貼るくらいで良くない?非合理的なものとしか思えません!
よって、blogをFacebookにリンクさせているので、喪中の表明は基本表明はこちらで済ませます。
意外とFacebookで繋がっていても住所知っている人って少ないと思うので、逆に丁度良い。長年の付き合い=住所を知っているとは限らないしね。サラリーマンではないから、上下の関係とかに縛られてないから、あいつは喪中葉書すら送って来なかった、とか言われる事も無かろう。寧ろね、亡くなったおばあちゃんからすると、自分が亡くなって年賀状出さないのだとか、喪中葉書出さねば等と望んでいるはずも無く。
残された我々がいつまでも忘れず、心の中にずっとおばあちゃんを思う事の方が余程重要である。
今年を機に年賀状は止めるかな。図らずも昨年は奥さんのおばあちゃん、今年はおいらのおばあちゃんと2年連続で身内が亡くなったから2年連続年賀状はなし。この年代になると身内の不幸もまま増える訳ですよ。。これで疎遠になるなら仕方なし。でもね、そう言うことではないと思う。義理と人情の色合いが濃い国民性だが、年賀状が来ない、喪中葉書も出さないとかで人間関係を断ち切る様な人間にはなりたくないと、改めておばあちゃんに教わった気がする。
だから普通に会った方には、明けましておめでとうございます、と言いますよ。
義理と人情に付け込んだ話って、バレンタインみたいじゃないですか?あんなに馬鹿馬鹿しい仕組みもないけどさそんな事より、ちゃんとおばあちゃんを忘れずにいることに努めたいと思う。