DAY by DAY

日々の出来事、覚書

引っ越し

2023-12-20 02:45:22 | 日記
いつも読んで下さる方、ありがとうございます。
誠に勝手ながら、使い勝手の都合上、ブログを引っ越す事としました。

12/19日より、以下のサイトで継続しております。

https://live231219.livedoor.blog/

もしご興味おありでしたら、引き続きお付き合い願えればと思います。

今までありがとうございました。

12月18日-2

2023-12-19 09:52:34 | 日記
12月18日メモPart2。
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下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。
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1965年 - 日韓基本条約が発効し、両国の国交が成立。
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日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約
昭和40年(1965年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約。
通称日韓基本条約。

12月18日、ソウルで批准書が交換され発効した。

当条約では、1910年(明治43年)に発効した日韓併合条約は「もはや無効」で
あることを確認し、日韓併合により消滅していた両国の国交の回復、大韓民国
政府が朝鮮半島における「唯一の合法的な政府」であることが合意された。

また当条約と付随協約により、日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を
放棄し、当時の韓国の国家予算の2年分以上の資金を提供することで、日韓
国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、日本の対韓請求権と韓国の対日
請求権という両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓
関係正常化などが取り決められた。

なお当時の東西冷戦を背景に、当条約締結のための日韓交渉はアメリカ合衆
国が仲介を行い、また朝鮮民主主義人民共和国は当条約を「無効」と主張して
いる。

日本は韓国に対し、10年間で無償3億ドル、有償2億ドルの合計5億ドルの
資金提供を行い、相互に請求権を放棄することで合意した。しかし、最終的に
日本は約11億ドルの経済援助を行った。

韓国は日本からのこの請求権資金援助金や米国からの朝鮮戦争後1954年
から1970年の無償分のみでも18億7650万ドルの資金援助で浦項総合製鉄、
昭陽江ダム、京釜高速道路、漢江鉄橋、嶺東火力発電所などが建設されたこと、
10億ドル以上ともいわれるベトナム戦争特需などにより、最貧国から一転して
経済発展した。

一部は韓国でも補償が行われたものの、日韓基本条約によって日本から受けた
資金(当時5億ドル)は無償援助3億ドルも含め、経済発展資金にあてられて
おり、2014年韓国において補償を求める者が韓国政府を訴える裁判となった
が、日韓請求権協定で受け取った資金が産業育成やインフラ整備などの目的
に使用されたことについて「法律に沿うもので違法行為とは見ることはできない」
などの理由で、韓国政府に対する訴えでは原告は棄却や敗訴している。

一方で、責任企業に対する個人それぞれの個人請求権は消えたわけではない
として責任企業に対する賠償要求は認める判決が、2012年や2018年に韓国
の最高裁から出されている。

条約交渉までの経緯
「戦勝国」としての請求
1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物
返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた。

韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を
内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。
日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側
は対日戦勝国、つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金
を要求した。

さらに1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府
の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した。
また、韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和
条約)の締結時も戦勝国(連合国)としての署名参加を米国務省に要求したが、
アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された。

日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償
を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入
れた。

1951年(昭和26年)7月9日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐
米韓国大使に対して「日本と戦争状態にあり、かつ1942年1月の連合国共同
宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国
にはならない」と述べた。

梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前
から日本と戦争状態にあった」と反論した。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的
に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署
名国からはずした理由とした。

韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国
の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した。
兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓
国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界
大戦中に韓国人(朝鮮人)で構成された組織的兵力(抗日パルチザン)が中国
領域で日本軍と交戦した事実は、韓国を連合国の中に置かねばならないという
我々の主張の正当性を証明している」と主張した。

最終的に、1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は
許可されなかった。

一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の
朝鮮における日本の公共・私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令
33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、
対日賠償請求の準備をすすめていた。

韓国の主張に対し日本側は、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて李氏朝鮮を
合法的に併合、領有、統治しており、朝鮮と交戦状態にはなかったため、韓国に
対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せ
ざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル、大蔵省調査で軍事
資産を除き計53億ドル)の返還を請求する権利があると主張した。

しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」に
は、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とし
た点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから
発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた。

アメリカ合衆国の仲介
日韓交渉の背後には1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが
知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ
講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮
半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」
として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から
拒絶され、「当事国」になることができなかった。

1951年9月の日本国との平和条約調印後、サンフランシスコ講和会議に参
加することが許可されなかった李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、
アメリカの斡旋で日韓は国交正常化交渉に向けて、1951年10月20日に
予備会談を開始した。

会談は東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)でシーボルド外交局長
の立会いのもとに行われた。

日韓会談
1951年(昭和26年)10月20日の交渉から1965年(昭和40年)の日韓
基本条約締結までの会談を日韓会談、日韓国交正常化交渉という。
交渉では、日韓併合により消滅していた国家間の外交交渉の回復方式、
「李承晩ライン」以降韓国が占拠を続けていた竹島(独島)を巡る漁業権
の問題、戦後補償(賠償)の問題、日本在留の韓国人の在留資格問題や
北朝鮮への帰国支援事業の問題、歴史認識問題、 文化財返還問題など
多くの問題を含んでおり、独立運動家として日本を敵視し続けていた李大
統領の対日姿勢もあり予備交渉の段階から紛糾した。

しかし、最終的にはアメリカの希望もあり、冷戦下での安全保障のため合意
にいたった。

韓国は当時「戦場国家」であり、日本は「基地国家」であった。
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1970年 - 日本の新左翼である京浜安保共闘による上赤塚交番襲撃事件。
襲撃犯である最高幹部柴野春彦が死亡。
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上赤塚交番襲撃事件
1970年(昭和45年)12月18日に東京都板橋区赤塚三丁目、志村警察署上
赤塚交番が3人組の男に襲撃された事件。

犯人グループは京浜安保共闘(日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)の
メンバーで、一人は警察官に射殺された。

日本の左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。

柴野 春彦
1946年 - 1970年12月18日。
日本の新左翼活動家。

24歳で上赤塚交番襲撃事件を起こし、応戦した警察官によって射殺された。
日本の新左翼活動家として初めて警察官に射殺された人物である。
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1971年 - スミソニアン博物館での先進十カ国の蔵相会議の結果、USドルと
各国通貨との交換レートの見直しで合意(スミソニアン協定)、1USドル=
308円に切り上げられる。
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スミソニアン協定
1944年のブレトン・ウッズ会議で確立された固定相場制を終わらせた1971年
12月18日の協定である。

スミソニアン協定が有効である状態をスミソニアン体制と呼び、1973年2月~
3月まで継続した。

1944年のブレトン・ウッズ会議は、金本位制に基づくアメリカ合衆国ドルと連動
した通貨の国際的な固定相場制を確立した。その後、1970年代までにアメリカ
合衆国ならびに世界各国の経済、貿易、財政規模が著しく拡大し、金の産出量
や保有量が経済、貿易、財政規模の拡大に対応することが困難となった。

それに対し、1971年8月15日、アメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソン
が一方的にドルの金への兌換を停止することを発表し、金本位制は実質的に
終結した(ニクソン・ショック)。

その後、アメリカ合衆国連邦政府はこの変更に対して先進国と各国通貨を増価
するための交渉に入った。

1971年12月18日のスミソニアン博物館での会議において、G10はスミソ
ニアン協定を締結した。協定では、各国はアメリカ合衆国ドルに対して自国
通貨を増価することで合意した。
協定は国際的な通貨問題の根本的な再編成としてニクソンに歓迎されたが、
それはすぐに少なすぎ、また一時的な恩恵にすぎないことが判明した。

1973年にはドルの金の交換価値は38.02ドルから42.22ドルへと再び
再編成された。さらに、欧州通貨に対する更なるドルの減価が起きた。

早くも1973年3月にはスミソニアン体制の終焉が訪れた。
当時、各国政府は依然として、基本的には需要と供給の市場原理に基づ
いて為替相場を決定する変動相場制を実行する、
スミソニアン協定で決められたプラスマイナス2%以内の幅に為替相場を
維持するのに苦労していたが、主要通貨は互いの通貨に対して変動しは
じめていた。

英ポンドなどいくつかの通貨はそれ以前に変動相場制を始めていた。

解説
ここでの10カ国とは、当時のIMFの10カ国グループ(G10)を指す。
スミソニアン協定が結ばれた背景には、1971年8月に米国が米ドルの
金との交換性を停止したことによるブレトン・ウッズ体制の終結がある
(ニクソン・ショック)。

1973年2月には日本が田中角栄政権の大蔵大臣である愛知揆一の
裁断により変動相場制に移行することを決め、続く3月にはEC諸国
も変動相場制に移行。

ここにおいて、スミソニアン体制は完全に崩壊した。
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1971年 - 土田邸ピース缶爆弾事件。警視庁警務部長の妻が死亡。
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土田・日石・ピース缶爆弾事件
1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)にかけて、東京都内で発生
した4件の爆破殺傷事件(未遂を含む)の総称。

2件についてはピース(たばこ)の缶を使用した爆弾が、残りの2件について
は小包爆弾が使用されており、両事件を互いに無関係とする説もある。
18名が逮捕、起訴されたが、全員が無罪になった事件でもある。
(1人のみ別件微罪で有罪)

なお、4件中3件が未解決事件(公訴時効は成立)。

また、2件については真犯人を名乗り出る書物が時効後出版されている。
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1972年 - ベトナム戦争: アメリカ軍がラインバッカーII作戦を開始。北爆が再開。
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北爆
1964年11月にはビエンホアの空軍基地が襲撃され5人の軍事顧問が死亡し、
同クリスマスイブにはサイゴン市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリ
カ人2人が殺される。

その後、ソ連のコスイギン首相が北ベトナムを訪問していた1965年2月7日に、
プレイクのアメリカ軍事顧問団基地(キャンプ・ハロウェイ)が解放戦線によって攻
撃され、駐留アメリカ軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した。

この襲撃は、マクジョージ・バンディ大統領補佐官とホワイトハウス・アジア問題
担当局長のチェスター・クーパーがアメリカの調査団としてサイゴンに到着した
翌朝の出来事であったため、バンディはこれを北ベトナム政府からの挑発である
と受け取り、この時に既に南ベトナムに派遣されていたウエストモーランド将軍と
協議して軍事行動の強硬論に傾き、これがリンドン・ジョンソン米大統領が北爆
(北ベトナムに対する爆撃)を決断するきっかけとなった。

しかし、当時のベトナム側は前線部隊と司令部が綿密に連携するための通信
能力をもっておらず、この攻撃は第五軍管区の一指揮官が独自判断で行った、
わずか30名での遊撃的作戦に過ぎなかったことが後に判明している。
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1983年 - 第37回衆議院議員総選挙。ロッキード事件で田中角栄元首相の
実刑判決が出た直後で、自民党の議席が大幅減。
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第37回衆議院議員総選挙
1983年(昭和58年)12月18日に日本で行われた国会(衆議院)議員の
総選挙である。

中曽根康弘政権を支える田中角栄元首相に、一審においてロッキード事件へ
の関与が認定され実刑判決が下された。一方、前回総選挙が衆参同日選で
あったため、3年後となる1983年夏の同日選の可能性が盛んに喧伝された
が、中曽根康弘首相は解散を見送った。

このため衆院任期は3年を超えており、解散は時間の問題とされていた。
ロッキード判決を巡って反発を強める野党に対し、議長斡旋という形で「年内
総選挙」となり、衆院解散(田中判決解散)となった。
こうした経緯から「ロッキード選挙」とも呼ばれた。

総獲得議席では与党の自民党が大きく退潮する一方、この選挙でみそぎを期
した田中は新潟3区(定数5)で2-5位当選者の得票数総計を上回る大量得
票で当選した。
自民党は公認候補のみでは単独過半数に届かない敗北であった。

保守系無所属の追加公認で自民党は過半数を確保し得たものの常任委員
会での多数派確保を目指すことで、中曽根首相は新自由クラブとの連立政
権樹立を発表。
第2次中曽根内閣(1986年7月まで)が発足し、55年体制の下で唯一の
連立政権となった。
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1987年 - ラリー・ウォールがプログラミング言語「Perl」を発表。
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Perl
ラリー・ウォールによって開発されたプログラミング言語である。

実用性と多様性を重視しており、C言語やsed、awk、シェルスクリプトなど他の
プログラミング言語の優れた機能を取り入れている。
ウェブ・アプリケーション、システム管理、テキスト処理など、さまざまなプログラム
の開発に広く利用されている。

言語処理系としてのperlはフリーソフトウェアである。
Artistic LicenseおよびGPLのもとで配布されており、誰でもどちらかのライセン
スを選択して利用することができる。
UNIX、Windows、macOSやLinuxのようなUNIX互換OSなど多くのプラット
フォーム上で動作する。

エピソード
ラリー・ウォールは敬虔なクリスチャンであったため、Perlは当初、新約聖書の
マタイによる福音書13章46節の「高価な真珠」にちなんで、真珠を意味する
「pearl」と名付けられた。

ラリーは肯定的な意味を持つ短い名前を選びたいと考えていて、彼によれば
3文字および4文字の単語を辞書から探したが良いのが見つからなかったと
いうことである。
また、彼は妻のグロリアにちなんで名前を付けることも考えたが、家族の会話
でまぎらわしいために却下となった。

Perlの正式なリリースの前に、ラリーはすでに「PEARL」という名前のプログラ
ミング言語が存在することに気づき、綴りを変更して「Perl」とした。
このようにPerlという名前は何らかの略語ではないが、あとからいくつかのバク
ロニムが考えられている。

開発者ラリー自身によると、

「practical extraction and report language」
(実用的なデータ取得レポート作成言語)

という意味を持ち、同時に

「pathologically eclectic rubbish lister」
(病的折衷主義のガラクタ出力装置)

という少し皮肉な意味も込められている。
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1992年 - 1992年大韓民国大統領選挙で金泳三が当選。
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金 泳三
1927年12月20日または
1929年1月14日〈陰暦1928年12月4日〉- 2015年11月22日。
韓国の政治家。第14代大統領(在任1993年 - 1998年[6])。

本貫は金寧金氏。号は「巨山」(コサン、거산)。略称はYS。
実家は網元。

日本統治時代における創氏改名時の日本名(1945年まで)は金村康右
(かねむら こうすけ)。
早稲田大学特命教授。称号は名誉法学博士(早稲田大学)。

「両金」のもう一方の金大中と共に韓国の民主化の歴史で大きな役割を
果たした。独裁政治時代は民主化を求める野党で活躍したが、金大中と
決別後に保守政党と合意した後、軍部勢力を粛清したため、長い軍事政
権の後の初の文民政権である金泳三政権は「文民政権」と呼ばれること
になった。

保守政党内の穏健改革派の始まりとしても取り上げられ、大物政治家と
して評価される。ただし後述のIMF経済危機への対応の失敗や家族の
不正問題により、大統領任期中に国民の支持を失ってしまった不運の
政治家でもある。

死後には再評価の動きがある。
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1993年 - 東京都八王子市の創価学会所有施設「東京牧口記念会館」で
オウム真理教による学会名誉会長・池田大作の暗殺未遂事件発生。
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池田大作サリン襲撃未遂事件
1993年(平成5年)11月と12月18日、創価学会名誉会長・池田大作が
当時の宗教法人・オウム真理教の幹部に襲撃された暗殺未遂事件。

1995年(平成7年)3月の地下鉄サリン事件発生後に、オウム真理教に対す
る警察の強制捜査によりオウム真理教の幹部らが逮捕されて発覚した。
刑事事件として立件はされなかったが、1994年(平成6年)6月の松本サリン
事件に至る前日譚として言及され、オウム真理教の教祖である麻原彰晃が首
謀し村井秀夫、遠藤誠一、新実智光、中川智正、滝澤和義らオウム真理教の
幹部により実行されたことが、一連のオウム真理教事件に関する刑事裁判で
明らかとなった。

オウム真理教の教祖である麻原彰晃は、同じ新宗教である創価学会を敵視し
ていた。やがて「サンデー毎日から始まったオウムバッシングは、聖教新聞を
印刷している毎日新聞社グループと創価学会が結託して行っている」などと主
張し始め、『池田大作は日本を侵略するフリーメーソンの手先であり「仏法」を
曲げているまむしの一族』、『多くの人をだまして来世悪趣に転生させてしまう
のでこれを防がなければならない』、『オウム真理教の信者数を創価学会並み
に増やしたいが、それに至らないのは池田大作(名誉会長)が政治家の小沢
一郎を使って国家権力を動かし妨害しているからだと考えて』、『ポア(殺害)
しなければならない』と敵対心を露わにしていった。

1993年8月にはオウム真理教幹部の土谷正実が猛毒のサリン合成に成功
しており、麻原彰晃はサリンの最初のターゲットとして池田大作(名誉会長)の
襲撃を計画し、「サリンをまいてみろ」と指示。村井秀夫らが行動に移した。

当初はラジコンヘリによる航空散布が検討されたが、ラジコンヘリが操縦ミス
で大破したため、車両(自動車)による攻撃に変更した。


二度に渡り猛毒のサリン散布が実行されたが、池田大作の暗殺には失敗し
被害は無かった。しかし、創価学会の会館警備を担当していた牙城会員数名
が、一時的な視力減退や倦怠感などサリン中毒特有の症状を訴えたが、大き
な後遺症は確認されなかったため、創価学会側は警察への通報や被害届の
提出を見送った。

約1年半後の1995年のオウム真理教事件(地下鉄サリン事件)の刑事裁判
で本事件の全容が明らかとなった。

創価学会側の対応
数名の牙城会員が被害を負ってはいたが、創価学会側はこの事件を表沙汰
にすることはなく、犯行の事実は1995年に林郁夫(医師)の逮捕後の警察の
取調べの自供で明らかにされるまで、公にされることはなかった。

しかし、池田大作の行動予定の漏洩、流出という事態を重く見た創価学会は
事件以降、池田大作の行動予定の情報管理を厳しくするとともに、創価学会
本部職員の中からボディガード(身辺警護)担当者を選抜した「第一警備」を
発足させて池田大作の身辺警護(ボディーガード)に当たらせるとともに、学
会員による金城会、牙城会、創価班などに、各地域にある創価学会の会館
警備を強化させている。
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1997年 - W3CがHTML4.0を勧告。
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World Wide Web Consortium
World Wide Webで使用される各種技術の標準化を推進するために設立された
標準化団体、非営利団体である。
W3Cと略称される。

ティム・バーナーズ=リーが創設し、率いている。
本コンソーシアムは企業や団体が会員として加入し、専任スタッフと共にWorld
Wide Webの標準策定を行っている。
2022年1月8日現在、456の組織が会員として加入している。

HTMLまたはHyperText Markup Language
ハイパーテキストを記述するためのマークアップ言語の1つで、プログラミング
言語ではない。

主にWorld Wide Web(WWW)において、ウェブページを表現するために
用いられる。

ハイパーリンクや画像等のマルチメディアを埋め込むハイパーテキストとして
の機能、見出しや段落といったドキュメントの抽象構造、フォントや文字色の
指定などの見た目の指定、などといった機能がある。
ティム・バーナーズ=リーによってSGMLを元に開発された。

1993年に最初のドラフトが公開され、最初期においてはIETFが、1996年
以降はW3Cが、2019年以降はWHATWGが規格の策定、仕様公開を行
なっている。

1989年、CERNのティム・バーナーズ=リーは、オリジナルのHTML(および
多くの関連したプロトコル、HTTPなど)のメモを提案し、1990年5月にコード
化した。
NEXTSTEPの動作するNeXTcubeワークステーション上で開発された。

当時のHTMLは仕様ではなく、直面していた問題を解決するためのツール群
であった。直面していた問題とは、ティム・バーナーズ=リーやその同僚たちが
どのように情報や進行中の研究を共有するかということである。
彼の成果は後に国際的かつ公開のネットワークの出現として結実し、世界的
な注目を集めることになった。

HTMLの初期のバージョンはゆるい文法規則によって定義されており、ウェブ
技術になじみのない層に受け入れられる助けとなった。ウェブブラウザはウェ
ブページの意図を推測し、レンダリングを実行するのが一般的であった。
やがて公式規格においては厳格な言語構文を作ることを志向するようになっ
ていったが、それに加え、ウェブブラウザの挙動を元に構文エラーの取り扱い
も規格に含めることで、既存のウェブページに対する互換性の維持が図られ
ている。
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2003年 - 館山市一家4人放火殺人事件が発生。
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館山市一家4人放火殺人事件
2003年(平成15年)12月18日未明に千葉県館山市八幡で発生した現住
建造物等放火・殺人事件。

民家が放火されて全焼し住民の一家4人が死亡した。
加害者の男T(逮捕当時40歳・土木作業員)は本事件以前から市内で放火を
繰り返しており、特に5年前の1998年(平成10年)2月11日には館山市内
でキャバレーを全焼させる火災を起こして住み込みの従業員男性1人を死亡
させていた。

市内で繰り返された一連の連続放火事件では5人の人命が奪われ、数年にわ
たり市民を不安にさせたことから『千葉日報』の回顧記事では「地域社会に大き
な衝撃を与えた事件だった」と報道された。

加害者・死刑囚T
1963年(昭和38年)10月3日生まれ。
2019年(令和元年)10月1日時点で東京拘置所に死刑囚として収監されている。
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2019年 - かんぽ生命の保険の不適切販売が問題となった件で、外部弁護士で
つくる特別調査委員会が調査報告書を発表。法令や社内規則に違反した疑いの
ある事案が、13日時点で1万2836件あったと公表した。
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不祥事
保険金不払い
日本郵政グループのかんぽ生命保険は、民営化後の2007年10月~2012年
10月の5年間に保険金の請求があった約1700万件のうち約10万件、保険金
額にして約100億円が不払い状態である可能性があると、2012年11月13日
に発表した。

不正契約問題
2018年4月24日のNHKのクローズアップ現代+でかんぽ生命が不正契約を
行っていると報道した。

2019年6月27日、2014年4月~2019年3月の間に契約したうち、顧客が
生命保険の乗り換えで不利益を被った事例が23,900件に上ると発表した。
さらに、これらとは別に顧客が半年以上にわたり新旧契約の保険料を二重に支
払っていた事例が約22,000件あることも判明した。

2019年7月には、日本郵政の長門正貢社長や、日本郵便の横山邦男社長ら
が、東京都千代田区大手町で記者会見を行い謝罪した。また特別調査委員会
が設置され、伊藤鉄男元次長検事が委員長に就任した。

2019年7月10日の時点で、少なくとも10万件の不正契約が見つかっている。
2020年3月31日の時点で、2014年4月~2019年3月の間に契約したうち、
約183,000件の契約が機械的に調べて見つけられたものとして不正契約の疑い
があるとしている。

2019年12月27日に、金融庁による業務停止命令(2020年1月1日~2020
年3月31日)を受け、かんぽ生命社長の植平光彦が退任することになった。
合わせて、日本郵政株式会社社長の長門正貢、販売代理店である日本郵便株式
会社の社長である横山邦男が退任している。

2020年8月19日現在、特定事案18.3万件のうち、販売員の法令違反が410名、
社内ルール違反が2,212名、深掘調査22万件のうち、法令違反が37名、社内ル
ール違反が3名、見つかっている。
2020年8月の営業自粛期間中にも販売員が不正契約を行っていることが発覚して
いる。

2020年10月5日より業務再開。
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2023年、今日。
ハンバ~~~~~グ!!!



12月18日

2023-12-19 09:46:51 | 日記
今日12月18日は、年始から352日目、年末まであと13日。

エディターが突然変わってしまい、画像がいれられないので、
画像無しで。
(太字もできなくなってしもた。。。)

以下、今日の出来事一覧とその後にメモ記載。(メモはPart2まで)

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紀元前218年 - 第二次ポエニ戦争: トレビアの戦い。
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876年 - 清和天皇が譲位。貞明親王が践祚し、第57代天皇
陽成天皇となり即位する。
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1271年(至元8年11月乙亥) - クビライがモンゴル帝国の国号を元に改める。
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1352年 - インノケンティウス6世がローマ教皇に選出される。
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1695年(元禄8年11月13日) - 生類憐れみの令に伴い、徳川綱吉が
武蔵・中野村に16万坪の「犬小屋」を設置する。
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1787年 - ニュージャージー州がアメリカ合衆国憲法を批准し、
アメリカ合衆国3番目の州となる。
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1825年 - サーニー家のサーニー・ビン・ムハンマドが
カタールの初代首長となる。
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1865年 - アメリカの奴隷制度を完全に廃止するアメリカ合衆国憲法
修正第13条が成立に必要な27州で批准されたことが布告される。
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1874年 - 明治新政府による開化政策の一環として、東京初のガス灯
85基が銀座の芝金杉橋と京橋の間で点火される。
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1876年 - 伊勢暴動が発生。
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1891年 - 足尾鉱毒事件: 改進党議員の田中正造が、足尾鉱毒問題に
関する初の質問書を衆議院に提出。
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1892年 - チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』が初演される。
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1898年 - 上野公園にある西郷隆盛像の除幕式が行われる。
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1914年 - 第一次世界大戦開戦に伴い、エジプトがオスマン帝国の
名目上の宗主権から切り離され、イギリスの保護国となる。
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1914年 - 新橋駅に代わる東海道本線の旅客ターミナル駅として
東京駅が完成し、開業式を実施。20日より供用開始。
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1916年 - 第一次世界大戦: ヴェルダンの戦いが終結。
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1917年 - 相模鉄道が創立される。
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1925年 - ソ連の第14回共産党大会でスターリンが主張する
一国社会主義を採択。
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1942年 - 天龍型軽巡洋艦天龍に米潜水艦アルバコアが
発射した魚雷が命中し沈没。
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1945年 - ウルグアイが国連に加盟。
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1948年 - GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本経済自立復興の
ための経済安定9原則を発表。
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1950年 - 埼玉県大宮市の東北本線踏切で、東武バスが上野駅行列車の
側面に衝突。乗員・乗客13人が死亡、重軽傷4人。
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1956年 - 日本が国連に加盟。
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1958年 - 世界初の通信衛星 SCORE 打ち上げ。
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1961年 - インドネシアがオランダ領ニューギニア(イリアンジャヤ)に侵攻。
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1965年 - 日韓基本条約が発効し、両国の国交が成立。
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1966年 - 土星の衛星エピメテウスが発見される。
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1969年 - イギリス上院が「死刑廃止時限法」の無期限延長を決定し、
死刑廃止が確定。
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1970年 - 日本の新左翼である京浜安保共闘による上赤塚交番襲撃事件。
襲撃犯である最高幹部柴野春彦が死亡。
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1971年 - スミソニアン博物館での先進十カ国の蔵相会議の結果、USドルと
各国通貨との交換レートの見直しで合意(スミソニアン協定)、1USドル=
308円に切り上げられる。
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1971年 - 土田邸ピース缶爆弾事件。警視庁警務部長の妻が死亡。
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1971年 - キャピトル・リーフ国立公園設立。
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1972年 - ベトナム戦争: アメリカ軍がラインバッカーII作戦を開始。北爆が再開。
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1973年 - ソ連が有人宇宙船ソユーズ13号を打ち上げ。
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1974年 - 三菱石油水島製油所で原油流出事故発生。
大規模な海洋汚染を引き起こす。
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1977年 - 第22回有馬記念: テンポイントとトウショウボーイのマッチレース
が繰り広げられる。
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1978年 - ドミニカ国が国連に加盟。
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1983年 - 第37回衆議院議員総選挙。ロッキード事件で田中角栄元首相の
実刑判決が出た直後で、自民党の議席が大幅減。
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1984年 - 福井エフエム放送開局。
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1987年 - ラリー・ウォールがプログラミング言語「Perl」を発表。
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1987年 - ゲームソフトファイナルファンタジーシリーズ第1作
『ファイナルファンタジー』が発売。
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1989年 - 東証株価指数(通称:TOPIX)が史上最高の2884.80ポイントを記録。
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1990年 - 全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約が
国際連合総会で採択される。
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1992年 - 1992年大韓民国大統領選挙で金泳三が当選。
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1993年 - 東京都八王子市の創価学会所有施設「東京牧口記念会館」で
オウム真理教による学会名誉会長・池田大作の暗殺未遂事件発生。
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1997年 - W3CがHTML4.0を勧告。
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1997年 - 1997年大韓民国大統領選挙で金大中が当選。
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1997年 - 東京湾アクアライン開通。
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1999年 - NASAが地球観測衛星「テラ」を打ち上げ。
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1999年 - 大阪工業技術研究所と東北大学金属材料研究所の研究グループが、
磁力を用いて完全な球体を作る。
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2001年 - アメリカ・カリフォルニア州オーケランドの統一地区教育委員会が
黒人英語を英語に次ぐ第二言語とする決議を採択。
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2002年 - 東京地下鉄株式会社法成立。
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2003年 - 館山市一家4人放火殺人事件が発生。
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2005年 - 高松宮妃喜久子が薨去。それに伴い、当日予定されていた
紀宮清子内親王の婚約内定が延期される。
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2006年 - 宇宙航空研究開発機構が技術試験衛星「きく8号」を打ち上げ。
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2007年 - 海上自衛隊の護衛艦であるこんごう型護衛艦の1番艦こんごうが
ハワイ・カウアイ島沖での弾道ミサイル迎撃実験でスタンダードミサイル
SM-3により、高度100キロ以上の大気圏外を飛行する標的ミサイル1発の
迎撃に成功。
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2010年 - チュニジアでジャスミン革命勃発、アラブの春へと波及。
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2015年 - 2009年に神奈川県川崎市でアパートの大家とその弟夫婦を殺害
したとして2011年に裁判員裁判で死刑判決を受けた男の死刑が執行され、
裁判員裁判で死刑判決を受けた死刑囚としては初の死刑執行となった。
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2018年 - 日本政府が新たな「防衛計画の大綱」と今後5年間の
「中期防衛力整備計画」を閣議決定。護衛艦「いずも」を事実上空母化し、
新たに導入する最新鋭のステルス戦闘機F35Bを艦載機として搭載する
方針が盛り込まれる。
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2019年 - かんぽ生命の保険の不適切販売が問題となった件で、外部弁護士で
つくる特別調査委員会が調査報告書を発表。法令や社内規則に違反した疑いの
ある事案が、13日時点で1万2836件あったと公表した。
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2021年 - 東日本大震災の復興道路として国が整備を進めた三陸沿岸道路が
全線開通。未開通区間だった岩手県の普代-久慈インターチェンジ間25キロ
の通行が可能となり、仙台市―青森県八戸市の全長359キロが直結した。
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===メモ===============================
下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。
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紀元前218年 - 第二次ポエニ戦争: トレビアの戦い。
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トレビアの戦い
第二次ポエニ戦争中の紀元前218年12月18日、イタリア半島のプラケン
ティア(現在のピアチェンツァ)近郊、トレビア川を挟んで行われた戦い。

ハンニバル率いるカルタゴ軍と、ティベリウス・センプロニウス・ロングス
率いるローマ軍が交戦し、カルタゴ軍が勝利した。

結果と影響
この戦闘におけるローマ軍の損害は20,000名を超えた。
これに対しカルタゴ軍の損害は軽微で、大半は中央のガリア歩兵であった。
予想外の大敗を喫したローマ軍は、プラケンティアまで後退した。

2人の執政官は、カルタゴ軍の進撃を阻止することは不可能であると考え、
北部イタリアの放棄を決定、軍を後退させた。
ローマの正規軍に対して正面から挑み、これを打ち破ったことによって、ハン
ニバルの名声は大いに高まった。

カルタゴ軍に参加するガリア兵は増加の一途をたどり、まもなくカルタゴ軍の
兵力は50,000名を超えた。
ハンニバルはさらなる戦果を求めて南下した。
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876年 - 清和天皇が譲位。貞明親王が践祚し、第57代天皇
陽成天皇となり即位する。
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清和天皇
嘉祥3年3月25日〈850年5月10日〉- 元慶4年12月4日〈881年1月7日。
日本の第56代天皇
(在位:天安2年8月27日〈858年10月7日〉-
貞観18年11月29日〈876年12月18日〉。

諱は惟仁(これひと)。
後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。
文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣の藤原良房の娘の明子。

天安2年(858年)、前帝文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。
病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に
中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。
幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。
貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門
の変)が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件が解決しない最中の同年
8月に良房を正式に摂政に任命した。

なお、『日本三代実録』の清和上皇の崩伝記事(元慶4年12月4日条)によれ
ば、応天門の放火の主犯は善男の子である中庸とされて善男はその連座に過
ぎないとされたものの、清和天皇の意向によって厳罰に処せられたという。

貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、太
上天皇となる。2年半後の元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より
畿内巡幸の旅に入った。

翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。
水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣の源融の別邸棲霞観にて
病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。宝算31。

陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、
藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命
には上皇の意向が働いていたとする説もある。
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1271年(至元8年11月乙亥) - クビライがモンゴル帝国の国号を元に改める。
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中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の
一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の
直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル
人が建てた征服王朝である。

正式国号は、大元で、ほかに元朝、元国、大元帝国、元王朝、大モンゴル国とも
言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」
である。

定義と名称
伝統的に「中国を征服したモンゴル帝国が南北に分裂した内紛を経て、正統な中
華帝国になった国」とされていたが、「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれる
モンゴル遊牧民の国」するものなど様々な意見がある。

中国王朝としての元は唐崩壊(907年)以来の中国統一王朝であり、大都(現在
の北京)から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を支配したが、明(1368年
- 1644年)に追われて北元になってからはモンゴル高原まで支配領域を縮小
した。

中国の歴史には複数の征服王朝(遼・金・清など)があったが、元は政治制度
・民族運営において中国漢人の伝統体制に同化されず、モンゴル帝国から受
け継がれた遊牧国家の特徴を保ったまま統治し続けたのが特徴的であった。
一方、行政制度や経済運営では南宋の仕組みをほぼそのまま継承した。
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1352年 - インノケンティウス6世がローマ教皇に選出される。
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インノケンティウス6世
1282年 - 1362年9月12日。
アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位:1352年 - 1362年)。

フランス出身で、本名はエティエンヌ・オベール。
元は法律家で、トゥールーズで大学教授、判事をしていた。

1353年、インノケンティウス6世は、ローマの護民官でアヴィニョンに捕らえら
れていたニコラ・ディ・リエンツォ(通称コーラ)を釈放した。
(ペトラルカの助言があったという)

アヴィニョン捕囚後、教皇領内も分裂していたため、1354年、コーラとジル・デ・
アルボルノス枢機卿をイタリアに派遣した。コーラは政情不穏な状態にあったロ
ーマに戻り、市民の歓呼の声を浴びて市政を担当する。
しかし専制的な政治を行ったため、間もなく民心は離れ、暴徒と化した群集が押
し寄せ、コーラを殺した。

一方、元軍人のアルボルノス枢機卿はフィレンツェで軍勢を集めて教皇領を平定
し、教皇領の代理教皇に任命された。
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1825年 - サーニー家のサーニー・ビン・ムハンマドが
カタールの初代首長となる。
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サーニー家
現在のカタールの首長の王族。
マアーディード族 に属する。

カタールは1766年にクウェートから移住してきたハリーファ家が支配し、さらに
ペルシャからバーレーン島を奪うとハリーファ家が支配するバーレーンの統治下
にあった。
サーニー家はカタール土着の豪族で、19世紀前半に度々反旗を翻すが1840
年に1度鎮圧される。

その後も抗争は続き、 19世紀中頃よりイギリスと提携し、イギリスの保護領の
形でカタール支配を確立した。現在は独立国カタールをサーニー家の世襲によ
る首長制(絶対君主制の一種)で治めている。

首長以外の一族の影響力も強く、2002年の内閣閣僚の6割はサーニー家が
占めていたが、2013年6月にタミームが首長となり新たに任命した20人の閣
僚の内、サーニー家は首相を含め3人であった。

また、サーニー家以外では、アティーヤ家がカタールの有力家族であり、元外相
ハーリド・ビン・ムハンマド・アル=アティーヤや元国防大臣のハマド・ビン・アリー
・アル=アティーヤがいる。
また、アブドゥッラー・ビン・ハマド・アル=アティーヤ が国副首相兼エネルギー・
工業大臣として2007年11月に来日している。
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1865年 - アメリカの奴隷制度を完全に廃止するアメリカ合衆国憲法
修正第13条が成立に必要な27州で批准されたことが布告される。
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アメリカ合衆国憲法修正第13条
公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を継続すること、および制限のある
例外(犯罪を犯した者)付きで、自発的ではない隷属を禁じたアメリカ合
衆国憲法の修正条項の一つである。

その批准の前は、デラウェア州とケンタッキー州でのみ奴隷制は合法のまま
であった。他の全ての州では州の行動および連邦政府の奴隷解放宣言によっ
て奴隷は解放されていた。

奴隷解放宣言を発したエイブラハム・リンカーン達は、奴隷解放宣言が一時
的な戦争の手段と見なされるかもしれないことを心配し、奴隷制がまだ合法
である2州の奴隷を解放することに加えて、永久的な奴隷制度廃止を保障す
るための手段としてこの修正条項を指示した。
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1876年 - 伊勢暴動が発生。
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伊勢暴動
1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、
愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。
受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の暴動事件となった。

現行の高等学校「日本史」の教科書では、茨城県で発生した真壁騒動(真壁一揆)
と並び、地租改正反対一揆の代表とされている。この暴動を通して、地租が3%から
2.5%に引き下げられたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれた。
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1892年 - チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』が初演される。
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『くるみ割り人形』
ピョートル・チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽(作品71)、およびそれを用い
たバレエ作品である。

チャイコフスキーが手掛けた最後のバレエ音楽であり、1892年にサンクトペテル
ブルクのマリインスキー劇場で初演された。

本作は、クリスマス・イヴにくるみ割り人形を贈られた少女が、人形と共に夢の世
界を旅するという物語である。原作は、ドイツのE.T.A.ホフマンによる童話『くるみ
割り人形とねずみの王様』を、アレクサンドル・デュマ・ペールがフランス語に翻案
した『はしばみ割り物語』である。

クリスマスにちなんだ作品であることから毎年クリスマス・シーズンには世界中で
盛んに上演される。クラシック・バレエを代表する作品の一つであり、同じくチャイ
コフスキーが作曲した『白鳥の湖』『眠れる森の美女』と共に「3大バレエ」とも呼ば
れている。
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1916年 - 第一次世界大戦: ヴェルダンの戦いが終結。
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ヴェルダンの戦い
第一次世界大戦の西部戦線で、フランス共和国内のヴェルダンを舞台に繰り
広げられたドイツ軍とフランス軍の戦いである。

第一次世界大戦における主要な戦いの一つで、1916年2月21日に始まり、
両軍合わせて700,000人以上の死傷者を出した。

ドイツ帝国は膠着した戦況を打開すべく、参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケ
ンハインの発案により、目標をパリへと続く街道にあるヴェルダンに定めた。
ここで大量の損害をフランスに与えることにより、フランスが戦争を継続できなく
なるよう企図したのである。

当初においてこの作戦は成功をおさめていたが、この戦いを消耗戦と理解しな
いヴィルヘルム皇太子はヴェルダン攻略に固執した。その結果、両軍とも泥沼
式に師団を投入して多大な損害を出した。

この戦いの最中に東部戦線でのロシア軍のブルシーロフ攻勢やイギリス軍によ
るソンム攻勢が始まり、ドイツ軍はそちらの方に戦力を回さなければならなくなっ
た。そのためヴェルダン攻略は中止された。
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1925年 - ソ連の第14回共産党大会でスターリンが主張する
一国社会主義を採択。
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一国社会主義論
世界革命を経なくても一国で社会主義の建設が可能だとする考え方。
1924年にヨシフ・スターリンが主張し、1928年のコミンテルン第六回大会
で採択され、各国の共産党において支配的な見解となった。
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1948年 - GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本経済自立復興の
ための経済安定9原則を発表。
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ドッジ・ライン
戦後混乱期(戦後占領期)の1949年(昭和24年)2月に、日本経済の自立と
安定とのために実施された財政金融引き締め政策。
インフレ・国内消費抑制と輸出振興が軸。

GHQ経済顧問として訪日したデトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが、立案、
勧告した。1948年(昭和23年)12月に、GHQが示した「経済安定9原則」
の実施策である。

ドッジ・プランとも呼ばれる。

敗戦後、3年を経過した日本は、未だGHQの占領下にあった。
この頃、アメリカとソ連の間では、既に冷戦が表面化していたため、GHQは
日本を、アジアにおける反共の砦に仕立て上げる必要に迫られていた。
そこでジョゼフ・ドッジは、後にドッジ・ラインと呼ばれる経済合理化政策を画策。
日本の資本主義を強化する方策を打ち出し、翌年の1949年3月7日、ドッ
ジが内外記者団との会見において発表するに至った。

ドッジの認識
訪日したドッジは記者団への会見で

「日本の経済は両足を地につけておらず、竹馬にのっているようなものだ。
竹馬の片足は米国の援助、他方は国内的な補助金の機構である。
竹馬の足をあまり高くしすぎると転んで首の骨を折る危険がある」

と述べた。
ドッジが指摘したこの状況は、「竹馬経済」と呼ばれる様になる。

なお、ドッジは古典的な自由経済主義者であって新自由主義を信奉していた
ため、「竹馬発言」にも見られるように統制的なインフレ対策を嫌った。
しかし、GHQの経済官僚はニューディーラーとして介入的なインフレ対策を
支持したため、ドッジは必ずしも歓迎されなかったとされる。
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1958年 - 世界初の通信衛星 SCORE 打ち上げ。
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SCORE(Signal Communications by Orbiting Relay Equipment)
世界で最初の通信衛星である。

1958年12月18日にアトラス (ロケット)で打ち上げられ、宇宙から最初
の通信中継の試験を行った。また、アトラスを打上げ機として用いた最初
の成功例となった。

軌道上のテープレコーダーからドワイト・アイゼンハワー大統領のクリス
マスメッセージを短波で送信し、世界中の注目を集めた。

衝撃
地政学的戦略において、アメリカ合衆国は、1957年にスプートニク1号を打ち上
げたソビエト連邦と並ぶことになった。打上げ当日、アイゼンハワーはホワイトハウ
スにおいてソビエト連邦の支配下にあるポーランドからの代表団を接待するスケジ
ュールがあった。

その夕方のディナーのスピーチの席上で、彼は打上げについて言及し、ディナー
を中断して聴衆に対し計画の存在を明らかにした。この時彼は、SCOREは平和
目的のミッションであるが、アメリカ合衆国はもはや宇宙から核兵器を運ぶ能力を
持ったことを指摘した。
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<Part2に続く>



12月17日

2023-12-17 23:25:19 | 日記

今日12月17日は、年始から351日目、年末まであと14日。

 

画像は、作戦実行時のペルー軍兵士と救出される日本人の人質。

(1996年日本大使公邸人質事件)

 

以下、今日の出来事一覧とその後にメモ記載。

 

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546 - 東ゴート王トーティラがローマを占領。

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1600 - フランス国王アンリ4世がマリー・ド・メディシスと結婚。

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1777 - フランスがアメリカ合衆国の初承認国となる。

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1790 - メキシコシティで太陽の石が発掘される。

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1819 - シモン・ボリバルが大コロンビアの初代大統領に就任。

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1865 - シューベルトの交響曲第7番(未完成交響曲)がウィーンで初演。

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1880 - 東京・京橋にて臼井六郎による日本史上最後の仇討ち事件が発生。

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1902 - 教科書疑獄事件で200名以上が摘発される。

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1903 - ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。

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1907 - ウゲン・ワンチュクが初代ブータン国王に即位。

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1920 - 南洋諸島が日本の委任統治領となる。

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1926 - リトアニアで元大統領アンターナス・スメトナらが

クーデターを起こし、大統領カジス・グリニウスを追放。

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1939 - 第二次世界大戦: 

ウルグアイから国外退去を通告されたドイツのポケット戦艦

「アドミラル・グラーフ・シュペー」がモンテビデオ港外で自沈。

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1944 - 第二次世界大戦・バルジの戦い: マルメディ虐殺事件。

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1945 - ホンジュラスが国連に加盟。

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1945 - 衆議院議員選挙法改正公布。婦人参政権・大選挙区制などを規定。

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1957 - アメリカが大陸間弾道ミサイル(ICBM)「アトラス」の

発射実験に成功。

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1957 - 上野動物園内に日本初のモノレール(東京都交通局上野懸垂線)

が開業。

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1961 - インド軍によってポルトガル領ゴアが占領される。

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1967 - オーストラリアのハロルド・ホルト首相が

海で泳いでいる最中に行方不明になる。

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1983 - ロンドンの百貨店ハロッズでIRAによる爆弾テロ、5名が死亡。

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1987 - 千葉県東方沖地震が発生、死者2名。

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1987 - カプコンよりロックマンシリーズ第1作発売。

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1989 - アメリカのテレビアニメ『ザ・シンプソンズ』が放送開始。

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1992 - 1974年の多摩川水害訴訟の差戻控訴審で原告住民側が勝訴。

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1994 - ナスカの地上絵、古都京都の文化財が世界遺産に登録される。

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1996 - ペルー日本大使公邸人質事件が発生。

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1997 - 日本で介護保険法公布。

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1998 - イラク武装解除問題:

米・英両国共同でイラクに対し砂漠の狐作戦を開始。

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1999 - イラク武装解除問題に関する国際連合安全保障理事会決議1284

が採択される。

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2000 - 京福電気鉄道越前本線列車衝突事故が発生(松岡町)。

なお同社は、翌年6月24日にも事故を引き起こす。

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2010 - 取手駅通り魔事件が発生。

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2010 - ジャスミン革命: モハメド・ブアジジが抗議の焼身自殺を試みる。

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2011 - ソニー・コンピュータエンタテインメントより

PlayStation Vitaが発売される。

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2015 - 韓国地検による産経新聞支局長名誉毀損起訴事件:

産経新聞の加藤達也・前ソウル支局長に対し、ソウル中央地裁の

李東根裁判長が無罪判決。

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2021 - 北新地ビル放火殺人事件が発生。

大阪市北区北新地の雑居ビルで、放火殺人目的とみられる火災が

発生し、26人(容疑者含む)が死亡した。

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===メモ===============================

下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。

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546 - 東ゴート王トーティラローマを占領。

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トーティラ

516年 - 552年7月1日。

 バドゥイラと言う名前と共に伝承されている、叔父のイルディバルドと

従兄弟のエラリーコの死後の東ゴート王(在位:541年 - 552年)である。

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1600 - フランス国王アンリ4マリー・ド・メディシスと結婚。

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アンリ4

1553年12月13日 - 1610年5月14日。

ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 - 1610年5月14日)

およびナバラ国王エンリケ3(在位:1572年6月9日 - 1610年5月14日)。

 

ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主

となる。

 

1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、

カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、

1589年のアンリ3世の暗殺により王位を継承する。

その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布し

てカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。

 

戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリッ

ク信者によって暗殺された。

 

在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ

良王アンリと呼ばれる。

1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。

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1790 - メキシコシティ太陽の石が発掘される。

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太陽の石

古代アステカのモノリス。

 

アステカの暦石と呼ばれることもあるが、年月日を知る機能は無いので、厳密

には暦ではない。

 

アステカの宇宙観、時間観、歴史観をあらわす石彫の造形物である。

約24トンの玄武岩に直径約3.6メートルの円形のモチーフが彫刻されている。

かつてはアシャヤカトルの治世、西暦1470年代のものと考えられたことがあっ

たが、現在では否定されており、モクテスマ2世の治世(1502年-1521年ごろ)

に作られたとされる。

 

1790年12月17日にメキシコシティの中央広場から発掘され、現在はメキシコ

国立人類学博物館に展示されている。

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1865 - シューベルト交響曲第7(未完成交響曲)がウィーンで初演。

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交響曲第7

オーストリアの作曲家フランツ・シューベルトの作曲した7番目の交響曲

であるが、シューベルトの後期の交響曲は何度も番号が変更されており、

『交響曲第7番』が示す曲もその都度変化している。

 

シューベルトの代表作のひとつであり、一般的に『未完成』の愛称で親し

まれ、ベートーヴェンの『運命』やドヴォルザークの『新世界より』など

と並んで大衆的な人気がある。

 

かつてのレコード業界では『運命』と『未完成』のカップリングは、いわ

ゆる「ドル箱」として重視されていた。

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1880 - 東京京橋にて臼井六郎による日本史上最後の仇討ち事件が発生。

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臼井 六郎

1858年(安政5年) - 1917年(大正6年)9月4日。

江戸時代末期(幕末)から大正時代にかけての士族。

秋月藩家老・臼井亘理の長男。

 

日本史上最後の仇討をしたことで知られる。

 

明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親

の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯

罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。

 

江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪さ

れるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。

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1902 - 教科書疑獄事件200名以上が摘発される。

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教科書疑獄事件

1902年(明治35年)に日本で発覚した学校の教科書採用をめぐる教科書会社

と教科書採用担当者との間の贈収賄事件である。

 

この時期までの学校教科書は検定制だったが、この事件をきっかけに国定教科

書となり、それが第二次世界大戦まで続いた。

 

事件の背景

明治期の学校教科書は、当初認可制であった。

その後、政府が1886年(明治19年)に「教科用図書検定条例」を定め、翌1887

年(明治20年)5月に「教科用図書検定規則」を定めたことで、教科書会社が発行

した教科書を検定する制度が実施されるようになった。

 

当時の小学校教科書は、各道府県ごとに審査委員を配置し、道府県単位で検定

された教科書の採択を行うようになった。

そのような状況の下で、教科書会社による採択働きかけや売り込みなどの活動

も激しくなっていった。教科書採択をめぐって不正行為があるという疑惑は、たび

たび新聞紙上で取り上げられるようになった。

 

事件発覚

1902年(明治35年)秋、教科書会社の1つである普及舎の社長で元茨城県師

範学校長の山田禎三郎が列車内に自分の手帳を置き忘れた。

手帳に贈賄の事実関係が記されていたことから事件が発覚した。

 

同年12月17日、当局は教科書会社の金港堂・普及舎・集英堂・文学社など二十

余か所を一斉に捜索、金港堂社長・原亮一郎らを検挙した。

これを皮切りに贈収賄事件の一斉摘発が進められ、栃木県知事溝部惟幾や新潟

県知事柏田盛文、文部省の担当者、府県の採択担当者、師範学校長や小学校長、

教科書会社関係者など、40道府県200人以上が摘発された。

 

うち152人が予審に付され、116人が有罪判決を受けたが、冤罪も多数含まれて

いた。また、教科書疑獄事件に関係した金港堂・集英堂・普及舎・冨山房・国光社

などが発行する教科書は採択禁止となったが、文学社は無罪とされた。

 

影響[

教科書疑獄事件発覚以前から、文部省は教科書国定化を計画していた。

また帝国議会でも、事件発覚以前に複数回にわたり、教科書国定化の建議が

提出されていた。事件の発覚によって、政府は一気に教科書国定化をすすめる

こととなった。

 

事件発覚翌年の1903年(明治36年)には、小学校教科書国定化の法案が成

立し、国定教科書が導入された。

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1903年 - ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。

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ライト兄弟

アメリカ合衆国出身の動力飛行機の発明者かつ世界初の飛行機パイロットの兄弟。

世界最先端のグライダーパイロットでもある。

 

自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、1903年に世界初の有人動力飛行に成功

した。ただし、世界初という点についてはグスターヴ・ホワイトヘッドによる1901年

8月の初飛行が世界初であるという指摘がある。

 

1906年に万国国際法学会は、各国の自衛に供されぬかぎり航空は自由という原

則を採った。14対9という多数決の結果は、航空技術の熾烈な競争を招いた。

機先をとった彼らの特許はアンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルトに購入された。

連邦航空局(FAA)が発行するパイロットのライセンスカードの裏面にはライト

兄弟の肖像が描かれている。

 

LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の

人物100人」に選ばれた。

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1926 - リトアニアで元大統領アンターナス・スメトナらが

クーデターを起こし、大統領カジス・グリニウスを追放。

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アンターナス・スメトナ 

1874年8月10日 - 1944年1月9日。

リトアニアの政治家。

リトアニア共和国の初代大統領である。

 

独裁者

スメトナは、大統領カジース・グリニュスを追放した1926年のクーデター の首謀

者の一人であり、同年12月19日に彼は再び大統領となった。

(5月の総選挙後に起きたクーデターの後、スメトナが就任するまでの間、形式上

の大統領が2人誕生している)。

 

彼はアウグスティナス・ヴォルデマラスを首相に任命した。

翌1928年、スメトナは議会を抑圧し、5月15日に政府の承認とともに、さらに

大統領の権限を強めたリトアニア新憲法を公布。

1929年には、ヴォルデマラスを退任させ、リトアニアの独裁者となった。

 

1931年、1938年の大統領選挙で再選され、1940年6月15日までその地位

にあった。スメトナは地主への優遇策を行い、共産党を弾圧するなどしたが、国

の経済は安定していた。

彼は軍事費と教育費を引き上げ、識字率の向上に努めた。

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1944 - 第二次世界大戦・バルジの戦いマルメディ虐殺事件

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マルメディ虐殺事件

第二次世界大戦中に発生したドイツ軍による戦争犯罪である。

 

バルジの戦い最中の1944年12月17日、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐指

揮下のドイツ軍部隊により、捕虜となったアメリカ兵ら84人が殺害された。

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1967 - オーストラリアハロルド・ホルト首相が

海で泳いでいる最中に行方不明になる。

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ハロルド・エドワード・ホルト

1908年8月5日 - 1967年12月17日。

オーストラリアの政治家。第17代オーストラリア首相。

 

1967年12月17日に、友人達と共にビクトリア州メルボルン南方のビーチに

出かけ、泳いでいる最中に行方不明になる。その後、6日間に渡って捜索が

なされたが、ホルト本人はおろか遺留品すら発見されなかった。

主要国の首相が行方不明になる事例は、少なくとも第二次世界大戦以降では

類を見ない。

 

しかし、一国の首相が唐突に行方不明になったため、世間では首相の失踪と

いうことで、「中華人民共和国のスパイであり、潜水艦で連れ去られた」、「護衛

にボートに乗せられた後に国外逃亡して愛人と暮らした」といった諸説が出て、

大きなミステリーとされていた。

 

38年後の2005年9月2日に、地元のビクトリア州の検視官が他の水難行方

不明者の事例と共に、「ホルト首相は荒波にさらわれて水死した」と最終判断を

した。

 

この事件は誰かが急にいなくなったときや逃げるときに使うオーストラリアの俗語

「(do a)Harold Holt /(do the)Harry(ハロルド・ホルトをする/ ハリーをする)」

の語源となった。

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1992 - 1974年の多摩川水害訴訟の差戻控訴審で原告住民側が勝訴。

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多摩川水害

多摩川流域で起こった水害の総称である。

 

山梨県・東京都・神奈川県の境を流れる多摩川では、たびたび水害が起きていた。

1974年(昭和49年)9月1日(日曜日)に狛江市で発生した水害では、多摩川

左岸の民家が流出し、国の対応をめぐり長年にわたり裁判で争われた。

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1996 - ペルー日本大使公邸人質事件が発生。

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在ペルー日本大使公邸占拠事件

1996年(平成8年)12月17日(現地時間)に、ペルーの首都リマで

起きた左翼ゲリラによる駐ペルー日本国大使公邸占拠事件。

 

1997年(平成9年)4月22日、ペルー軍特殊部隊が突入し、人質が解放

されて終結するまで4ヵ月以上に及んだ。

 

在ペルー日本大使公邸人質事件ともいう。

 

その後

殉職した特殊部隊兵士のバレル中佐とヒメネス中尉には、マスコミや市民団体を

経由して日本から義捐金が寄せられた。また、脱出時に負傷し車椅子を使うこと

になった青木大使は、事件直後は代理人を葬儀に参列させたものの、犠牲にな

った兵士たちとカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前に向かい冥福を祈った。

その後、ペルーを訪れる日本の国務大臣は、必ず3名の墓前を訪れている。

 

大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に移転した。

新公邸は二重の塀に四方の監視塔、防弾仕様のゲートなどセキュリティーが大

幅に強化されており、事件当時のようなパーティーやレセプションもほとんど行わ

れなくなった。事件現場となった旧公邸は取り壊され、2011年に地元の不動産

業者に売却されたが、2022年現在も更地のままである。

なお、外周の塀と扉はそのまま残されており、事件当時の弾痕が確認できる。

突入訓練用に建造された大使公邸の実物大レプリカは事件後も保存されており、

「チャビン・デ・ワンタル博物館」として事件の資料が展示されている。

 

フジモリ大統領が下した突入の決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大き

な賛辞を贈った。しかし、後日、投降したMRTAメンバーを超法規的殺人により

処刑した疑惑が浮上し、フジモリ大統領も訴追された。

 

2000年(平成12年)11月19日 - フジモリ大統領がペルー国内の反政府運動を受け

辞任。日本に事実上の亡命。

2001年(平成13年)3月 - MRTAメンバーの墓を発掘し再検死。

2002年(平成14年)5月 –

特殊部隊の指揮官ら12名に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1名を拘束。

2003年(平成15年)3月 –

ペルー政府からの要請を受けた国際刑事警察機構が、フジモリ元大統領

を人道犯罪容疑で国際手配。日本政府は身柄引き渡しを拒否。

2003年(平成15年)5月27日 –

ペルー政府の嘱託を受けた東京地方裁判所が、MRTAメンバーの生存中の

拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。

 

この事件によりペルー国内だけでなく世界各国から非難を浴びたMRTAは、主要

メンバーの大半をこの事件により喪失しただけでなく、国内外からの支援も途絶え、

事実上の壊滅状態に追い込まれた。

 

2007年(平成19年)4月21日には、禁固32年の刑で服役中の指導者ビクトル

・ポライは事件の武力解決10周年を期に共同通信へ書簡を寄せ、自らの武力革

命路線の敗北を認め武闘路線の放棄を表明した。

 

本事件では、テロリストが人質に対して次第に同情的になり、本来、危険が迫れば

処刑する予定だった人質を殺害できず、大半の人質が生還した。

以上のことから、人質が犯人側に同情的になるストックホルム症候群の逆パターン

として、事件現場の地名にちなみリマ症候群という心理学用語が生まれた。

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1998 - イラク武装解除問題:

米・両国共同でイラクに対し砂漠の狐作戦を開始。

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砂漠の狐作戦

イラクは1997年以降、アメリカ側の意図が査察団に影響していることや、元アメ

リカ軍の諜報関係者であったUNSCOMの主任検査官スコット・リッターによる抜

き打ちの捜査に反発し、UNSCOMの査察を妨害し始めた。

安保理は安保理決議1115、1134、1137でイラクを批判したが、イラクの姿勢は

改善されなかった。

 

1998年1月28日、アメリカのオルブライト国務長官はイラクが査察を受け入れ

ない場合、アメリカは単独攻撃を行うと表明した。しかし、支持を表明したのはイ

ギリスと日本(当時は安保理非常任理事国)だけで、ロシア、フランス、中国など

はいずれも反対の構えを見せた。

 

2月23日、国際連合のコフィー・アナン事務総長とイラクのターリク・アズィーズ

副首相の会談で、イラクは査察受け入れを表明した。

日本はイギリスと共に、イラクの査察受け入れ違反は「イラクにとって最も重大な

結果をもたらす」と最大級の文言で警告する内容の決議案を提出し、3月2日、

決議1154として成立した。

 

小和田恒国連大使は「最も重大な結果」の文言について、「武力行使を容認する

とかしないとか言っているのではない」と主張したが、アメリカ側には「(軍事)

行動に移す権限を認めたもの」(クリントン大統領)と受け止められた。

8月には大量破壊兵器についての査察協議は物別れに終わる。

 

10月31日、イラクの最高指導機関である革命指導評議会はUNSCOMとの協

力を全面的に停止することを決定した。11月15日、安保理は決議1205でイラ

クを非難した。イラクは17日からUNSCOMの査察を受け入れたものの、12月

15日にはバトラーUNSCOM委員長から「イラクの完全な協力は得られなかった」

と安保理に報告がなされた。

 

これを受けてアメリカはイギリスとともに、12月16日から19日にかけて、トマホ

ーク325基以上とB-52からの空中発射巡航ミサイル(AGM-86C CALCM)90

基によるミサイル空爆を行なった(砂漠の狐作戦)。

湾岸戦争後最大の軍事行動であるこの作戦においては、コーエン米国防長官は

「作戦は非常に成功した」と述べ、「この攻撃で(イラクの)生物・化学兵器を

運搬する能力を削減できた」と語った。

 

この攻撃は国連安保理の承認を得ておらず、国際連合事務総長コフィー・アナ

ンは空爆に遺憾の意を表明した。安保理では15ヶ国(安保理非常任理事国

10ヶ国含む)のうち、12ヶ国が遺憾の意を表明した。

一方、日本は小渕恵三首相が「我が国として米国と英国による行動を支持する」

と支持表明を出した。

(支持を表明したのは日本、カナダ、韓国、ドイツ、スペインなど)

 

1999年12月にはUNSCOMに代わり、UNMOVIC(国連監視検証査察委員会)

の成立を定めた国際連合安全保障理事会決議1284が採択された。

しかしイラクはUNMOVICの受け入れも行わず、抵抗を続けた。

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2010 - 取手駅通り魔事件が発生。

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取手駅通り魔事件

2010年(平成22年)12月17日に、茨城県取手市で発生した通り魔事件。

 

2010年(平成22年)12月17日午前7時40分ごろ、茨城県取手市のJR常磐

線・関東鉄道常総線取手駅の西口ロータリーにて停車中の関東鉄道の路線バス

に男が乗り込み、突然包丁を取り出して通学中の江戸川学園取手中学校・高等

学校の女子高生ら14人を次々に刺した。

 

この事件で高校生9人、中学生3人、一般人2人が負傷した。

うち、女性1人が重傷を負った。

 

事件当時、取手駅西口バスロータリーにバスは2台在線しており、関東鉄道取手

営業所所属の7時45分発の中央タウン経由江戸川学園行きのバス(以降、1台

目と呼称)と守谷駅東口から到着し、7時50分発の中央タウン経由江戸川学園行

きになるバス(以降、2台目と呼称)が居た。

 

男はまず前に止まっていた1台目のバスに侵入し、刃物を取り出した。

車中で刃物を振り回し、女子高生を殴るなど暴力を行う。

2台目に移動したのち、乗客に取り押さえられ、茨城県取手警察署の警察官に殺

人未遂の現行犯で逮捕された。

 

事件を巡っては、事件現場の周囲にいた通行人がtwitterを用いて現場の状況を

速報するなどの行為も見られた。

 

2011年(平成23年)5月27日、水戸地方検察庁は男を傷害と銃砲刀剣類所持

等取締法違反の罪で起訴した。逮捕時は殺人未遂罪であったが、被害者の怪我

の程度が1〜3週間と比較的軽く、殺意の認定が難しかったことから傷害罪等での

起訴となった。同年9月12日、水戸地方裁判所(菱田泰信裁判長)において懲役

3年6月の判決が言い渡された。

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2010ジャスミン革命モハメド・ブアジジが抗議の焼身自殺を試みる。

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ジャスミン革命

2010年から2011年にかけてチュニジアで起こった革命(民主化運動)である。

 

モハメド・ブアジジムハンマド・ブアジジとも。

正式名:ターリク・アッ=タイイブ・ムハンマド・アル=ブアジージー

1984年3月29日 - 2011年1月4日。

チュニジアの露天商。

 

2010年12月17日、モハメドはいつものように大通りで野菜売りの露商を

行っていた。モハメドは店の常設許可を役所や大統領官邸に求めていたが、

回答は得られなかった。

当日、野菜と友人から借りた秤を政府の女性職員に没収された。

さらに女性は、彼の父親を侮辱し、彼自身のみすぼらしさをあざわらい、平

手打ちを食らわせた。

 

その後モハメドは役所に秤の返却を求めたが、追い返された。

役所に払う賄賂がなかったため、解決に至らなかったと言われている。

正午ごろ、モハメドは没収されなかった野菜カートとガソリンの入ったポリタ

ンクを手に、再び役所前まで来た。

彼は再び陳情をしようとしたが、役所の敷地内に入ることさえ拒否された。

 

そこで彼は役所前の通りの真ん中に出て、自分とカートにガソリンをかけ、

ライターで火をつけ焼身自殺した。

従兄弟のアリ・ブアジジは大勢の群集とともにそこにいたが、モハメドを止

めることはできなかった。

 

18日午後、モハメドは搬送された病院で死亡した[11]

 

アリは事件が起こった直後の現場を画像に収め、インターネットに投稿した。

画像は直後の騒ぎを収めた別の画像とともに全国に広がり、モハメドを「中

東革命の英雄的殉教者」と見なす者、彼を模倣し後追い自殺をする抗議者が

現れるなど社会的波紋が広がった。

 

チュニジア全土に大規模な反政府デモが広がった結果、2011年1月14日

に23年間大統領の座にあったザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー

が国外へ逃亡し、ジャスミン革命が成立した。

 

ジャスミン革命の成功により、民主化運動の波はエジプト、イエメン、リビア、

バーレーン、アルジェリアなど中東及び北アフリカ諸国に波及し、アラブの春

と呼ばれる運動となった。

 

死後

2011年6月30日、フランスのパリ14区に、モハメド・ブアジジの名前をつ

けた広場が誕生した。

 

10月27日には「アラブ世界の歴史的な変革に貢献した」ことが評価され、

他の4人とともにサハロフ賞を受賞した。

12月28日、タイムズは「意図がどうであれ、彼の死は抑圧された民衆を鼓

舞した」として「今年の人」に選出した。

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2015 - 韓国地検による産経新聞支局長名誉毀損起訴事件:

産経新聞加藤達也・前ソウル支局長に対し、ソウル中央地裁の

李東根裁判長が無罪判決。

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産経新聞ソウル支局長名誉毀損起訴事件

2014年(平成26年)8月3日、産経新聞の公式ウェブサイトに、同紙の

加藤達也・ソウル支局長(当時)が、セウォル号沈没事故の当日に韓国の

朴槿恵大統領が第一報を受けた後、7時間に渡って所在不明の状態になり、

この時間帯(いわゆる「空白の7時間」)に、元補佐官の鄭潤会と密会し

た可能性があるという風評が流布している、という朝鮮日報や証券街の

報道を元にした署名コラム「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に

…誰と会っていた?」を掲載し、韓国大統領府や東京都港区の駐日本国大

韓民国大使館が「名誉毀損などに当たる」として、当該記事の削除を要請

したが、産経新聞社が当該記事の削除に応じなかったため、検察当局は

加藤前支局長が「朴大統領の名誉を毀損した」と見做して在宅起訴し、

大韓民国からの出国を禁止する行政処分とした事件である。

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2021 - 北新地ビル放火殺人事件が発生。

大阪市北区北新地の雑居ビルで、放火殺人目的とみられる火災が

発生し、26人(容疑者含む)が死亡した。

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北新地ビル放火殺人事件

2021年(令和3年)12月17日に大阪府大阪市北区曽根崎新地一丁目

(通称:北新地)の「堂島北ビル」4階で発生した放火事件。

 

2021年12月17日10時20分ごろ、大阪府大阪市北区曽根崎新地一丁目

にて「ビルの4階が燃えている」と119番通報があり、消防車両80台が出動

した。現場は「堂島北ビル」で4階部分の約25 m2が焼損し、火はおよそ30

分後にほぼ消し止められた。

 

火元と見られる4階には心療内科や精神科などを専門とするクリニック「働く

人の西梅田こころとからだのクリニック」があった。放火の疑いがあり、警察の

捜査と消防が調査を行った結果、放火と立証された。

また、その放火を行った犯人がビル内で見つかった重傷者(その後、蘇生後

脳症で死亡)であることが判明した。

 

被害状況

死亡者:27名(20 - 60代・男性14名・女性12名)(被疑者Aを含む)。

負傷者:1名(中等症)。

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2023年、今日。

 

担担麺。

うまいけど高い。

1050円て。。。

 

 


12月16日-3

2023-12-17 03:58:56 | 日記

12月16日Part3。

===メモ===============================

下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。

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1946 - フランスでレオン・ブルム社会党内閣が成立。

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レオン・ブルム

1872年4月9日 - 1950年3月30日。

フランスの政治家。

 

社会党に属し、3度にわたって首相を務めた。

とりわけ1936年に成立したフランス人民戦線内閣の首班を務めた人物

として知られる。ホロコースト生還者。

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1949 - 毛沢東ソ連を初訪問。

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沢東

1893年12月26日〈光緒19年11月19日〉 - 1976年9月9日。

中華人民共和国の政治家、思想家。

 

1921年7月に創立された中国共産党の創立党員の1人で、長征と日中戦争

を経て党内の指導権を獲得した、1945年より中国共産党中央委員会主席を

務めた。

 

日中戦争後の国共内戦では蔣介石率いる中華民国政府を台湾に追放し、

1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。

1949年10月から1976年9月まで同国の最高指導者であった。

 

死後の評価

タイム誌の20世紀の重要人物の1人に選出された。

毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。

研究者は毛沢東の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、文化・社会・

経済・外交に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策に

よる犠牲者を数千万と推定する。

 

 

そして、マルクス・レーニン主義を中国社会に導入しようと自らが確立した毛沢東

思想に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じる。

なお、当時識字率の低かった中国の識字率を急速的に上昇させ、統一国家であ

る中華人民共和国を建国したのは評価される点であり、良くも悪くもと言った人物

であるとして扱われる。

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1960 - ユナイテッド航空のDC-8とトランス・ワールド航空のL-1049

スーパーコンステレーションがニューヨーク上空で衝突して墜落、墜落地

の住民を含めて134人が死亡(1960年ニューヨーク空中衝突事故)。

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この事故では、空中衝突事故を防止する航空管制が行われていたにもかかわらず、

事故を未然に防ぐことができなかった。

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1986 - ソビエト連邦の崩壊アルマアタ事件

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アルマアタ事件

1986年12月にソビエト連邦のカザフ・ソビエト社会主義共和国の首都

アルマアタで発生した民族暴動である。

ペレストロイカ開始以来、ソ連における初めての民族暴動といわれる。

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1989 - ルーマニアティミショアラでラースロー司教国外退去への

抗議デモに対して治安部隊が発砲、ルーマニア革命の発火点となる。

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ルーマニア革命

1989年12月15日から12月25日にかけて、ルーマニア社会主義共和国で

発生した一連の出来事を指す。

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1989中国民航機ハイジャック事件

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中国民航機ハイジャック事件

1989年(平成元年)12月16日に発生した中華人民共和国の民間航空機に

対するハイジャック事件である。

 

ハイジャック実行者の身柄引き渡しについて日中間の国際問題になった

事件である他、外国でハイジャックされた旅客機が初めて日本の空港に

着陸した事件である。

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1997 - テレビアニメ『ポケットモンスター』を見ていた人々が

痙攣などの症状を起こす(ポケモンショック)。

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ポケモンショック

1997年(平成9年)12月16日火曜日にテレビ東京および系列局(TXN)で

放送されたテレビアニメ『ポケットモンスター』(ポケモン)の一部視聴者が光過

敏性発作等を起こし救急搬送された放送事故・事件である。

 

また、事件の影響で本番組の放送がおよそ4カ月間休止という措置が取られた。

 

発端及び原因

発端となったのは、1997年12月16日の18:30 - 19:00にテレビ東京系列で

放送されたテレビアニメ『ポケットモンスター』第38話「でんのうせんしポリゴン」

である。

 

ビデオリサーチ社による当時の調査によると、本放送回の視聴率は関東地区で

16.5%、関西地区で10.4%だった。

この回は、主人公・サトシたちがコンピュータによるポケモン転送システム内でロケ

ット団が引き起こした事件を解決するため、CGポケモン「ポリゴン」を使って転送

システムの内部に侵入するという内容だった。

 

この回ではコンピュータの世界を表現するために、ワクチンソフトによる攻撃シーン、

破損したデータを修復したシーンにパカパカを始めとするエレクトロニックフラッシュ

やフラッシュなどの激しい点滅が多用された。事件後にテレビ東京が配布した報告

書「アニメ『ポケットモンスター』問題に関する記録」によれば、25箇所にわたって1

秒間以上連続して使用しており、番組後半の部分に関してはこれらの演出が連続し

て使用されていたという。

 

特にこの演出が顕著だったのは、ピカチュウの技である「10まんボルト」がワクチン

ソフトのミサイルを迎撃するシーンである。報告書では、各局の同時ネットにより、

4歳から12歳にかけての345万人の視聴者が見ていたと推定され、18時51

分34秒から4秒間で106回点滅したとされている。

 

本放送の終了後、放送を見ていた一部の視聴者が体調不良を訴え、病院に救急

搬送された。病院に搬送された患者の多くは児童であった。

自治省(現・総務省)消防庁の調べでは30都道府県の中の651人が病院に搬送

され、そのうち130人以上が入院したとされている。

 

患者の症状は主に発作様症状、眼・視覚系症状、不定愁訴、不快気分、失神、頭痛

や吐き気等であり、原因とされているのは上記の激しい光の点滅を断続的に視聴し

たことにより引き起こされた光過敏性発作である。

病院に搬送されなかったものの、何らかの影響を受けた児童の総数は数千人に達

すると推定されている。

 

一つのテレビ番組を見ていたことで700人近くが病院に搬送されたのは、世界の

テレビ史上初の出来事であったとされる。

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2018 - 北海道札幌市豊平区ガス爆発事故が発生し、

52人負傷(札幌不動産仲介店舗ガス爆発事故)。

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札幌不動産仲介店舗ガス爆発事故

2018年(平成30年)12月16日に北海道札幌市豊平区で発生した

ガス爆発事故である。

 

2018年12月16日20時29分頃、札幌市豊平区平岸の「アパマンショップ

平岸駅前店」(運営はAPAMAN子会社の「アパマンショップリーシング北海道」)

等が入居する木造2階建ての雑居ビル(酒井ビル)で爆発が発生。

同店および隣接する居酒屋「北のさかな家 海さくら平岸店」が倒壊・炎上し、52

人が負傷した。

 

事故発生当初、負傷者数は41名とされていたが、自力で病院に向かうなどした

人数を後に豊平警察署が把握し訂正された。

 

火災は翌17日2時10分に鎮火した。

総務省消防庁は12月16日21時30分、札幌市消防局から第1報を受領した

ことに伴い、災害対策室を設置し情報収集にあたった。

 

事故原因

北海道警察などの捜査によると、この日、アパマンショップ平岸駅前店内では、

店舗改装に伴い、従業員がジメチルエーテル (DME) とエタノールを含んだ

未使用の除菌消臭スプレー120本を廃棄するため、噴射して空にするという

処理を行っていた。

このとき、店舗のドアや窓は締め切られたままで換気されていなかった。

 

その後、この従業員が手についた消臭液を洗うため湯沸かし器を点けた瞬間

に店舗内に充満したガスに引火して爆発が起きた。爆発の衝撃で同店などの

プロパンガスボンベの配管が破損して、可燃性のガスが流出したことも火災が

広がった原因とみられる。

 

事故発生当初、運営会社はスプレー缶の在庫は160本としていたが、道警の

捜査では店内から240本以上のスプレー缶を押収している。また同店店長に

よると、事故当日の昼頃に屋外でスプレー缶の廃棄処理を行ったが、通行人に

目撃されたためすぐに店内に戻ったという。

実際に、店舗裏で男性従業員2人が壁に向かってスプレー缶4本を噴射して

いるのを近隣住民が目撃している。

 

北海道新聞の報道によると、爆発音は20km離れた江別市内でも聞こえたという。

この爆発について、元北海道大学工学部特任准教授の早坂洋史(火災科学)は

「音速を超える衝撃波を伴う爆轟が起きた可能性がある」と指摘している。

 

被害

隣接の居酒屋「北のさかな家 海さくら平岸店」では忘年会の時期だったことから

ほぼ満席の40人以上の利用客がいた。特に2階では階段付近から出火したた

め避難しにくくなったが、多くの客が不動産店舗と逆側に逃げたことで2階の床

が抜け、1階の瓦礫がクッションとなり全員が外に避難することができた。

 

被害は現場となった建物のみならず、周辺のマンションで窓ガラスが割れる、吹き

飛ばされたトタン屋根が架線に接触して240戸が停電するなど近隣一帯に及んだ

ため、札幌市は避難所として「平岸まちづくりセンター」を開放し、窓ガラスが割れた

家の住人など60人が一時避難した。

 

その他、現場前の国道453号(平岸街道)が通行止めとなったため、沿線の店舗

は営業休止、北海道中央バスとじょうてつバスは一部路線の迂回運行を余儀なく

されるなど、市民生活にも影響を及ぼした。

この事故の影響で、アパマンショップと北のさかな家 海さくら平岸店は閉店を余儀

なくされた。

 

報道被害

なお、事故発生直後は北海道警が原因を特定していなかったこと、居酒屋が火気

を扱っていたこともあり、当初は被害者である「北のさかな家 海さくら平岸店」を爆

発発生源と疑う報道被害があったことを、同店を運営するさくらグループの代表が

自らのブログで明かしている。

 

実際には同店の店長と店員が客の避難誘導に当たった結果、死者を出すことは

なかった。

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2023年、今日。

懐石風のお弁当、しかも量少な目のがあったのでそれにした。

(それでも高いけど)

うまいのはうまかったし、量も丁度良かったのだけれども、

何か誤魔化されたような感じが残る。

どうも釈然としない・・・。