12月16日Part2。
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下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。
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1920年 - 海原地震が発生。
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海原地震
1920年12月16日に中国・寧夏回族自治区の海原県で発生した巨大地震である。
海原大地震もしくは1920年甘粛地震とも呼ばれる。
地震の規模(マグニチュード)はM8.5(Ms8.6)。
1920年12月16日、中華民国の甘粛省(海原県)で内陸型の大地震が発生した。
中国大陸のほぼ全域で揺れが観測され、震源近傍では激震となったほか、震源
から離れた北京や上海、広州や香港等でも有感となった。
地震の規模はM8.5(Ms8.6)で、内陸直下型地震としては世界最大級の規模で
ある。地震波形は世界の96地点で記録された。
余震は本震発生からおよそ3年間も続いたという。
海原地震により、200km以上にわたって左ずれの地表地震断層(西北西-東南東)
が出現した(237kmの地表地震断層帯が現れた)。さらにこの地震断層の西方延
長上において、7年後にMs7.9の地震が発生した(7年後の地震による地震断層
は60km)。
被害
地震の発生地点である寧夏回族自治区には活断層が南北に走っており、激震で
大規模な地すべりや斜面崩壊が多発、甚大な被害が発生した。
地震による死者数は20万〜24万人程度に達し、合計死傷者数は50万人以上
となった。
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1932年 - 東京日本橋の白木屋百貨店で火災(白木屋大火)。
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白木屋大火
日本の都市災害史に残る大火災のひとつ。
1932年(昭和7年)12月16日午前9時15分ごろ、4階の玩具売り場で火災
が発生。地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して午後12時
過ぎに鎮火した。
火災による死者が1人、墜落による死者が13人、傷者が67人という、日本初
の高層建築物火災となった。
当時、白木屋は歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾り
つけがなされていた開店前の点検でクリスマスツリーの豆電球の故障を発見し、
開店直後に男性社員が修理しようとした時、誤って電線がソケットに触れたため
スパークによる火花が飛び散り、クリスマスツリーに着火。火は山積にされたセル
ロイド人形やおもちゃに燃え移り瞬く間に猛烈な火炎をあげた。
この社員は消火活動をしているうちに煙に巻き込まれ一酸化炭素中毒で死亡した。
4階にいた55人の客や店員は驚いて避難を開始したが、火の勢いはますます大
きくなり、エレベーターや階段が煙突の役割をして4階から最上階の8階までが
猛煙に包まれた。
日本橋消防署の望楼勤務員がこの火災を発見し、ポンプ車29台、ハシゴ車3台
などを出動させて消火活動にあたったが、ハシゴ車は5階までしか届かず、ポンプ
も送水圧力が上がらないため5階以上への放水はできなかった。
日本橋消防署に在籍していた器械体操の経験者が、消防車積載の梯子を外壁に
垂直にかけてよじ登り、ロープで固定して避難ルートを作った上で被災者を誘導した
が、一部の客や店員らはパニックに陥り、売り場にある布やカーテンを結んでロープ
代わりにしたり、女性店員の帯を結んで脱出を試み、途中で切れて転落死した。
また、消防部が地上で張った救助ネットをめがけて7階から飛び降りて助かった客
や店員が80人前後いたが、目測を誤って地面に激突して死亡した人もいた。
これを教訓に、神田消防署に特別救助隊の前身となる「専任救助隊」が編成される[35]。
白木屋店長は、客や従業員を誘導して屋上に避難し(階下に降りられなかったため)、
客の生命を守った。
この火災によってセルロイド製玩具の危険性が社会問題となり、各百貨店の玩具売
り場からセルロイド玩具が一斉に姿を消した。しかし、他に代替できる素材が存在し
なかったため、しばらくするとセルロイド玩具は再び販売されるようになる。
火災以降、セルロイド不燃化や代替素材の研究開発が進められたが、実現したのは
戦後になってからだった。
物理学者の寺田寅彦はこの火災を受けて「よほど用心しないと、デパートというもの
は世にも巧妙な大量殺人機械になる恐れが充分にある」と述べたが、それは千日
デパート火災や大洋デパート火災などで繰り返されることになった。
なお、白木屋は火災から一週間後となる12月24日に営業を再開。
好奇心から詰めかけた客で、たびたび入場制限をかけるほどの賑わいを見せ、
売上は火災前一日平均の倍程度に達した。
白木屋ズロース伝説
この火災では、逃げ遅れた高層階の女性店員が転落死している。
和服を着ていた女性店員たちはズロースを着けていなかったため、陰部が野次馬
に晒されるのを防ぐため風でめくれる裾を押さえようとして、思わず命綱を手放し
転落死したとされている。
また、この悲劇を教訓として女性へズロース着用が呼びかけられたことで[、ズロー
スを履く習慣が広まり[、洋装化が進んだとされている。
ただしこの通説には疑問が呈されている。
まずズロースが原因で転落死したという点について、白木屋専務の山田忍三が
23日の朝日新聞で避難活動の様子を談話の形で発表し、5階、4階と樋や命綱
を伝わって降りてきた和装の女性店員が2、3階まで来たところで野次馬に見られ
ていることに気が付き、羞恥心から裾の乱れを直そうとして墜落し負傷したケース
があったため、今後は女性店員にズロースを履かせることにしたと述べている。
つまり、ここでいう女性店員とは転落死した高層階の店員のことではない。
しかし、28日の都新聞の記事では両者が結びつけられ、女性店員が転落死した
のはズロースを履いていなかったからだと報じ、読者にズロース着用を呼びかけ
た。以降、この都新聞の記事の内容が他の新聞でも反復されている。
火災がきっかけでズロースが広まったとする点についても、火災から1年半後の
福岡日日新聞の1934年6月22日の記事にて、90%以上の女性がズロースを
履いていないことを報じている。
同記事では、都新聞の内容を反復しており通説が浸透しだしているが、それが
ズロースの着用率を高めるには至っていない。そもそも、災害を教訓にしたズロ
ース着用の呼びかけは関東大震災の際にもあったが、このときもズロースの普
及は実現しなかった。
白木屋火災をきっかけとしたズロースの着用率増加はせいぜい1%程度とみら
れており、ズロースの本格的な普及が始まるのは火災から10年ほど経ってか
らである。当時の日本人は腰巻の習慣が長く、ズロースを着用するようになるに
はかなりの時間が必要だった。
のちにズロースが普及したのは、女性が男性と同じ職に就くようになるにつれ、
職業婦人としての洋装が定着したからである。
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1944年 - 第二次世界大戦: バルジの戦いが始まる。
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バルジの戦い
第二次世界大戦の西部戦線において、1944年12月から1945年1月の間
アルデンヌ高地で行われた、ナチス・ドイツのドイツ国防軍および武装親
衛隊とアメリカ軍を主体とする連合軍との戦闘。
ドイツ軍は一時的に反撃を成功させたものの敗れ、態勢を立て直した連合軍
はドイツ本土への進撃を再開した。
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1945年 - A級戦犯容疑者としてGHQから出頭命令を受けていた
近衛文麿元首相が服毒自殺。
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近衛 文麿
1891年〈明治24年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日。
日本の政治家。
位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は公爵。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長
(第18代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣
(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣、
麝香間祗候、大政翼賛会総裁(初代)、東亜同文書院院長(第5代)、
日本放送協会総裁(第2代)などを歴任した。
五摂家の近衞家の第30代当主。
後陽成天皇の12世孫に当たる。
祖父は明治新政府で神祇事務総督、議定、刑法事務局督、神祇官知事、神祇大
副を歴任した近衛忠房。
父の近衞篤麿は第7代学習院院長や第3代貴族院議長を務める傍らアジア主
義の盟主であり、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行うも、文麿が成人す
る前に病没した。父の没後に近衞家の家督として公爵を襲爵、のちに貴族院議員、
東亜同文会会長となる。当初は研究会に所属するが火曜会を結成し、貴族院副議
長、貴族院議長などの要職を歴任した。
3度にわたり内閣総理大臣に任命され、第1次近衞内閣、第2次近衞内閣、第3
次近衞内閣を組織した。
その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。
また、平沼内閣では、班列として入閣した。第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端
を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明、近衛声明や東亜新秩序などで対応、
戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。
また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し
総辞職した。
その後も国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣
では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では八紘一宇と大東亜共栄
圏建設を掲げて日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。
太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上
奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終
戦工作も展開していた。
太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。
大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。
和平工作
1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開始後は、「英米派
の筆頭」とされ共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と
接近するようになる。
1942年(昭和17年)のイギリス領シンガポール占領とアメリカ本土空襲、日本軍
のアッツ島占領とミッドウェー海戦の敗北を、英米とのいい条件下での和平の好期
と見た吉田は、近衞を中立国のスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちか
け、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰して
しまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。
戦局が不利になり始めた1943年(昭和18年)秋、近衞が和平運動に傾いている
ことを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・佐藤賢了を通じて「最近、公爵はよか
らぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおや
めになったほうがよろしい」と脅しをかけた。
このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。
以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。
近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平
運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた
皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した。
1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退
陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。
戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせ
る様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した上で、天皇に戦争責任が及びにくく
するように考えていた。
終戦工作
1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、
米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が
話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする
計画が定められた。
ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。
戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられ
ることになった。平沼騏一郎、広田弘毅、近衞文麿、若槻禮次郎、牧野伸顕、岡
田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。
近衞は1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を
奏上した。
近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。
この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に
対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命
を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力
と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論
も主張している。
近衛上奏文の作文には吉田茂と殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏
からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進について
は理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてからでな
いとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している。
近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら皇
道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画
であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。
6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介と
した和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方
が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。
これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に
近衞は天皇から特使に任命された。
この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。
しかし、近衞自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だ
った細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがな
いんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言っ
て、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている。
だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めてい
たスターリンに事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案
をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外
の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、「やむを得なければ」海外の軍
隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供
することに同意する事になっていた。
ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を
開始する方針であった。
終戦後
1945年(昭和20年)8月15日に日本軍はポツダム宣言を正式に受託すること
で有条件降伏した(日本の降伏)、第二次世界大戦の停戦が発効し(終結は同年
9月2日)、鈴木貫太郎内閣は総辞職して東久邇宮稔彦王が後任の内閣総理大
臣(史上唯一の皇族首相)となった。
近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、緒方竹虎と
共に組閣作業にあたった。イギリスやアメリカを中心とした連合国による日本占
領が開始された後の10月4日、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカー
サーを訪問し、持論の軍部右翼赤化論と共に開戦時において天皇を中心とした
封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、ドイツのような社会
民主主義者や自由党が育たない間に、皇室と財閥を除けば日本はたちまち共
産化すると説いた。
これに対しマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。
さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば
承りたい」と尋ねると、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性と自由主
義的分子の糾合を指示し、近衞を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然
として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。
8月18日国務大臣の近衛文麿は警視総監を呼んで、国体護持のため慰安所設
置の指揮を要請した。この要請から警視庁は東京料理飲食業組合に命じた結果
マッカーサー元帥の執務室間近の400室からの互楽荘で国家によるアメリカ軍
将兵への性的慰安所が運用開始した。
その後治安維持法の廃止を巡って10月5日に東久邇宮内閣が総辞職したこと
により近衞は私人となった。
近衞は10月8日にGHQ政治顧問ジョージ・アチソンを訪問し、マッカーサー
から言われた帝国憲法改正について意見を求めたところ、アチソンは十項目に
わたる改憲原則を示した。これを受け近衞は天皇から内大臣府御用掛に任じら
れ、東大の高木八尺と京大の佐々木惣一の助言を受けながら熱心に帝国憲法
改正作業を進めた。
10月23日の朝日新聞は、天皇退位の条項を付け加えるため皇室典範の改正
が近く行われるだろうとの近衞の話を伝えた。首相・幣原喜重郎はこれに抗議し、
翌24日に近衞は軌道修正する会見を行っている。
近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治
的地位を得ることができたと考えていた。また池田成彬に対して「あなたは戦犯
になるおそれがある」と語るなど、戦犯裁判にかけられるとはみていなかった。
しかし国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近
衞の戦争責任問題が追及され始める。
10月26日の『ニューヨーク・タイムズ』では、「近衞が憲法改正に携わることは
不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と
論じた。
白洲次郎たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、
近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮
内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消
したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。
憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな
打撃であった。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内
閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者
と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声
明はGHQが近衞の切り捨てを図ったものであった。
こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。
近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の米海軍艦アンコンに呼び出され、軍部
と政府の関係について米国戦略爆撃調査団による尋問が行われた。
尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどい
ものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。
GHQ参謀部第2部の対敵情報部調査分析課長のエドガートン・ハーバート・ノー
マンは、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衞が関与したことおよびアジア侵略
・対米開戦に責任があることを指摘するレポート「戦争責任に関する覚書」を11月
5日にアチソンに提出した。
11月17日、アチソンはこれをバーンズ国務長官に送付した。
自殺
12月6日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し近衛を逮捕する
よう命令を発出(第四次逮捕者9名中の1人)。近衛は、逮捕命令の発表を
軽井沢の山荘で聞いた。
A級戦犯として起訴され裁判(後の極東国際軍事裁判)にかけられる可能性が
高くなった。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日
未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。
54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢で
ある。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衞が唯一である。
自殺の前日に近衞は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上
多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられ
ない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。
この遺書は翌日にGHQにより没収された。
なお、近衛の出頭について吉田茂外相が近衛の自殺の直前にマッカーサーと
の面会で「近衛は自宅監察とする」との見通しを聞いており、また病気を理由に
出頭を延期できる見込みもあった。吉田は近衛の自殺を知り、「自分が近衛に
逢って伝えていたら」と悔やんでいたという。
葬儀は12月21日に行われた。
京都市北区の大徳寺に「近衛家廟所」が在り、文麿の墓所はその地に在る。
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<Part3へ続く>