1970年7月4日
私はあの時、純真的緊張を隠さなかった事を告白しておかなければならない。すべての自己で、もう私は死刑という思わず恐怖の念を惹起さす感情を説得させ、克服したと決めてしまっていた。しかしあの時、何故ともなしに内世界に現れた! これは殺人犯しか理解不可能な心理現象であるのだ・・・・・・。私は未だ若輩者である。とても、とても、未熟な者である。しかしそれは、私の理念では赦されない心的行為であるのだ。絶対的に寛恕されないものなのだ。私は自分自身なりの理念を何時も堅持して後向きでなく精神歩幅を進めて行きたい、と非常に願う以上、あの時の「私」は赦されないものであるのだ。
あの時とは、審理の席上、被害者の家族が極刑を云々と言った時であるのだ。この問題は全く主観的なものであるけれど、心理学を手がけている現在大事なものと思う、殺人者の心理を調べる上で研究材料とすることが出来ると思う。審理中被害者の家族が加害者に「極刑をお願いします」と言うことを、加害者が聞いた時の微妙な動揺である。
これは二つの方面から弁証法的に考察せる。多分まだ幾つかの考察方法があろうが、私個人の主観的態度としては二つしか見出せない。その一つは個人的報復感情である。これは、私自身がこの事件をやる直前の感情に似ている。がしかし、私の方がこの家族の者達よりその感情が激烈であった。また、家族のこの感情は、当然に起こり得る妥当的本必然的感情であるのだ。これは被害者の家族としては、直接その行為をしたい衝動を最大限にその人の理念をもっておさえつけたもので、そしてそこに諦観の念が起こると同時に、合法的方法で仇討ちと思惟を走らす時に、この「極刑云々」という言葉が表出するのである。要するに、この時、私が検事に警視庁で初めて会ったその場で「此の世は殺すか殺されるかだ。今度はおめえさん方を殺すか番だ、云々」とのことになる訳である。
そして後一つは、社会(資本主義社会)的観点からの考察である。司法界としても、この死刑という刑罰は歴然と矛盾するものと認承している。しかしながら、法律というものは国家治安を守護しないのであるならば、何の立存する意義をもたないものである。例えそれが、資本主義社会という死刑という刑罰を設置しなければ静謐を保持さられない社会であってもである。この前述の二句点の中の述語内容からして矛盾するものであることが直感的に理解せる以上、これから述べると尚更矛盾或いは撞着が生じると思うのであるが書くだけ書いてみるつもりだ。
心情的に言って、死刑とは司法関係の者達には厭味のある思惑を起こさせるものであるらしい、特に青少年犯罪者の場合はである。しかし、刑法的にその刑が妥当する事件であるなら、鬼となり、それらの犯罪者に対処しなければならないものである。この時、前述した被害者の家族の思惑が加味され、その司法関係の者達は金棒を把んだ心境となり、個々人の主観的心情の呵責は抹消されるのである。俗にいう鬼に金棒とは、ここから由来したものであろう(?) 。この金棒たる被害者の家族の思惑は、報復という事に万丈気炎をあげているのは当然
であるのだ。この哀れむべき者達は、相手の加害者がどんなに正当的状態からその行為を起こしたとて寛恕しようなどとは思うものではないのである。資本主義社会の法律の落とし穴をここにも露呈する事が可能だ。
(後 略)
無知の涙 永山則夫著 河出文庫刊
♪ さよなら丈が人生さ 彼の世とやらでオタッシャに
私はあの時、純真的緊張を隠さなかった事を告白しておかなければならない。すべての自己で、もう私は死刑という思わず恐怖の念を惹起さす感情を説得させ、克服したと決めてしまっていた。しかしあの時、何故ともなしに内世界に現れた! これは殺人犯しか理解不可能な心理現象であるのだ・・・・・・。私は未だ若輩者である。とても、とても、未熟な者である。しかしそれは、私の理念では赦されない心的行為であるのだ。絶対的に寛恕されないものなのだ。私は自分自身なりの理念を何時も堅持して後向きでなく精神歩幅を進めて行きたい、と非常に願う以上、あの時の「私」は赦されないものであるのだ。
あの時とは、審理の席上、被害者の家族が極刑を云々と言った時であるのだ。この問題は全く主観的なものであるけれど、心理学を手がけている現在大事なものと思う、殺人者の心理を調べる上で研究材料とすることが出来ると思う。審理中被害者の家族が加害者に「極刑をお願いします」と言うことを、加害者が聞いた時の微妙な動揺である。
これは二つの方面から弁証法的に考察せる。多分まだ幾つかの考察方法があろうが、私個人の主観的態度としては二つしか見出せない。その一つは個人的報復感情である。これは、私自身がこの事件をやる直前の感情に似ている。がしかし、私の方がこの家族の者達よりその感情が激烈であった。また、家族のこの感情は、当然に起こり得る妥当的本必然的感情であるのだ。これは被害者の家族としては、直接その行為をしたい衝動を最大限にその人の理念をもっておさえつけたもので、そしてそこに諦観の念が起こると同時に、合法的方法で仇討ちと思惟を走らす時に、この「極刑云々」という言葉が表出するのである。要するに、この時、私が検事に警視庁で初めて会ったその場で「此の世は殺すか殺されるかだ。今度はおめえさん方を殺すか番だ、云々」とのことになる訳である。
そして後一つは、社会(資本主義社会)的観点からの考察である。司法界としても、この死刑という刑罰は歴然と矛盾するものと認承している。しかしながら、法律というものは国家治安を守護しないのであるならば、何の立存する意義をもたないものである。例えそれが、資本主義社会という死刑という刑罰を設置しなければ静謐を保持さられない社会であってもである。この前述の二句点の中の述語内容からして矛盾するものであることが直感的に理解せる以上、これから述べると尚更矛盾或いは撞着が生じると思うのであるが書くだけ書いてみるつもりだ。
心情的に言って、死刑とは司法関係の者達には厭味のある思惑を起こさせるものであるらしい、特に青少年犯罪者の場合はである。しかし、刑法的にその刑が妥当する事件であるなら、鬼となり、それらの犯罪者に対処しなければならないものである。この時、前述した被害者の家族の思惑が加味され、その司法関係の者達は金棒を把んだ心境となり、個々人の主観的心情の呵責は抹消されるのである。俗にいう鬼に金棒とは、ここから由来したものであろう(?) 。この金棒たる被害者の家族の思惑は、報復という事に万丈気炎をあげているのは当然
であるのだ。この哀れむべき者達は、相手の加害者がどんなに正当的状態からその行為を起こしたとて寛恕しようなどとは思うものではないのである。資本主義社会の法律の落とし穴をここにも露呈する事が可能だ。
(後 略)
無知の涙 永山則夫著 河出文庫刊
♪ さよなら丈が人生さ 彼の世とやらでオタッシャに