『カウンセリングを考える(上)』河合隼雄著
Ⅳ いじめとカウンセリング より一部抜粋
(※ 略した部分は「…」で表記)
思春期というのは、どちらにしても大変なものですから、さなぎと同じように、
まわりをぐっと守ってやる、すごい殻みたいなもの、これが必要…日本の昔からの
やり方は…男と女を分けて、しかも中学の先生って、やたらに怖かった…ちょっと
宿題を忘れてきただけでガーンと殴ったり…それから教練の教官と言う…いつも
何か怒り回っていた人がいた…ぼくらは、そういうやつが嫌で…タコならタコと
いう名前をつけて「うわ、タコが来た」と言って逃げたり…いっぱい落書きしたり
なんかして、結局そういうことをやっていることによって、お互いにいじめを
しなくてすんだんです。
人間と言うのは何か不思議なもので、心の中にいろいろなものを持っていますから、
そうれをどういう装置によって、どう処理するのか。考えてみたら、嫌われ役に
なっていた先生なんていうのは、ずいぶん精神衛生のために貢献していた…
ばかげたことでありながら、しかしどこかで思春期の子どもをたちを守っていたことも事実
…優しい先生、分かってくれる先生…そんな人ばっかりいてくれたんでは、
さなぎは誰が守るのか。そういう人は、絶対に守りにはされない…
教師とか、カウンセラーと言うのは、しっかりとした内的な権威というものを持って…厳しさを持つこと
…先生が「みんなで話し合って、いじめの悪いことを考えましょう」とか、
そんなことをいっていても、全然解決になりません。「こんな馬鹿なことは絶対に許せない」という、
先生のファイトが燃え上がって当たっていったところでこそ、うまくいく
…おもしろいことに、先生が内的な強さを持つと、子ども達はいっぺんに変わってきます。
いじめとかなんとか言っていますけれど、ひょっとするとこれは子供たちが
「そこかに一人くらい、本気になってこのさなぎの殻になってくれる人はいないのか。
お父さんもお母さんも先生も、みんな勉強のことはやかましく言うけれども、本当に
私達を守ってくれるものはいないんじゃないか。だから私たちはしんどくなって、
せめていじめでもやっていないと気がすまないんだ」
というふうに、はっきりと立ってくれる人を探すためにやっているんじゃないか、とさえ思う…
Ⅳ いじめとカウンセリング より一部抜粋
(※ 略した部分は「…」で表記)
思春期というのは、どちらにしても大変なものですから、さなぎと同じように、
まわりをぐっと守ってやる、すごい殻みたいなもの、これが必要…日本の昔からの
やり方は…男と女を分けて、しかも中学の先生って、やたらに怖かった…ちょっと
宿題を忘れてきただけでガーンと殴ったり…それから教練の教官と言う…いつも
何か怒り回っていた人がいた…ぼくらは、そういうやつが嫌で…タコならタコと
いう名前をつけて「うわ、タコが来た」と言って逃げたり…いっぱい落書きしたり
なんかして、結局そういうことをやっていることによって、お互いにいじめを
しなくてすんだんです。
人間と言うのは何か不思議なもので、心の中にいろいろなものを持っていますから、
そうれをどういう装置によって、どう処理するのか。考えてみたら、嫌われ役に
なっていた先生なんていうのは、ずいぶん精神衛生のために貢献していた…
ばかげたことでありながら、しかしどこかで思春期の子どもをたちを守っていたことも事実
…優しい先生、分かってくれる先生…そんな人ばっかりいてくれたんでは、
さなぎは誰が守るのか。そういう人は、絶対に守りにはされない…
教師とか、カウンセラーと言うのは、しっかりとした内的な権威というものを持って…厳しさを持つこと
…先生が「みんなで話し合って、いじめの悪いことを考えましょう」とか、
そんなことをいっていても、全然解決になりません。「こんな馬鹿なことは絶対に許せない」という、
先生のファイトが燃え上がって当たっていったところでこそ、うまくいく
…おもしろいことに、先生が内的な強さを持つと、子ども達はいっぺんに変わってきます。
いじめとかなんとか言っていますけれど、ひょっとするとこれは子供たちが
「そこかに一人くらい、本気になってこのさなぎの殻になってくれる人はいないのか。
お父さんもお母さんも先生も、みんな勉強のことはやかましく言うけれども、本当に
私達を守ってくれるものはいないんじゃないか。だから私たちはしんどくなって、
せめていじめでもやっていないと気がすまないんだ」
というふうに、はっきりと立ってくれる人を探すためにやっているんじゃないか、とさえ思う…
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