これはかなり落ち込んでいたときの日記・・・かなり暗い。職場が大嫌いになっていた頃。今読むと、こんな面倒くさい人とは関わりたくないなと思ってしまう(苦笑い)今日は、彩の会の方々から元気をいただき、少し回復。
「子どもたちには不断見過ごす花の美しさや波の踊り、大樹に宿る敬虔なもの、同じ空のしたで一喜一憂しながらも懸命に生きている命などに目を向けて欲しい。
ものごとの本質にある美は、決して奇抜さやおもしろさでは無い。それは一見地味な中に存在し、純粋な目を懲らした先に見えてくるものだ。
人を引きつけて止まない絵を描きたい。しかしそれが、人気取りではいけない。誰かのまねごとであってはならない。流行に流されてはならない。物事を表面上の体裁だけで観る人の言葉や態度にに惑わされないようにしよう。
皆の目が私の絵に向かないのは、自分の絵に魅力が無いからだ。自信が無いからだ。まだものごとの表面しか捉え切れていないからだ。
禅語に「放下着ほうげじゃく」という言葉がある。「放下」は「捨てる」、「着」は、「何々しなさい」という命令形。つまり執着心を捨ててしまいなさい。教師なのか、画家なのか。平教員なのか管理職なのか。好きなのか嫌いなのか。嬉しいのか悲しいのか。怒っているのか平静なのか。やりたいのかやりたくないのか。心と正反対の言葉をつい口にし、一人悶々としている今の私は、すべてが中途半端。執着心があるからイライラする。一喜一憂する。僻み妬む。
いずれ私は、一度すべてを捨てなければならないだろう。
もっと修行をして出直してきます。
いつか自信を持ってお見せできる作品が出来るまで。」
「子どもたちには不断見過ごす花の美しさや波の踊り、大樹に宿る敬虔なもの、同じ空のしたで一喜一憂しながらも懸命に生きている命などに目を向けて欲しい。
ものごとの本質にある美は、決して奇抜さやおもしろさでは無い。それは一見地味な中に存在し、純粋な目を懲らした先に見えてくるものだ。
人を引きつけて止まない絵を描きたい。しかしそれが、人気取りではいけない。誰かのまねごとであってはならない。流行に流されてはならない。物事を表面上の体裁だけで観る人の言葉や態度にに惑わされないようにしよう。
皆の目が私の絵に向かないのは、自分の絵に魅力が無いからだ。自信が無いからだ。まだものごとの表面しか捉え切れていないからだ。
禅語に「放下着ほうげじゃく」という言葉がある。「放下」は「捨てる」、「着」は、「何々しなさい」という命令形。つまり執着心を捨ててしまいなさい。教師なのか、画家なのか。平教員なのか管理職なのか。好きなのか嫌いなのか。嬉しいのか悲しいのか。怒っているのか平静なのか。やりたいのかやりたくないのか。心と正反対の言葉をつい口にし、一人悶々としている今の私は、すべてが中途半端。執着心があるからイライラする。一喜一憂する。僻み妬む。
いずれ私は、一度すべてを捨てなければならないだろう。
もっと修行をして出直してきます。
いつか自信を持ってお見せできる作品が出来るまで。」
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