とある釣り師の話
その方は当日、久しぶりの渓流釣りに心躍らせて自宅から片道2時間のN川へ向かっていました。
有名河川にも関わらず現地駐車場には先行者の車は止まっていませんでした。時期は6月の中頃、自宅を3時過ぎに出発したこともあってか、太陽は上りきっておらず辺りはまだ薄暗い、少しひんやりとした空気が立ち込めていました。
駐車場からすぐ入渓できることもあり早速釣り仕掛けをセットし、意気揚々と釣りを始めました。
両岸に針葉樹と広葉樹の入り混じった渓は「ザーーー一」という、川の流れる音のみで、静寂と喧騒を肌で感じる何とも言えぬ雰囲気を携えていました。
しばらくアタリがないまま遡行していくと、すでに太陽は昇っているものの、釣り座は左右を深い藪で覆われた何となく嫌な圧迫感を感じる景色に変わっていきました。そんな中でも釣りを続けていると、仕掛けに付けている目印が水面直下へ消し込むやいなや、そのアタリに即合わせ、魚とのやり取りの後には何とも綺麗なニッコウイワナの姿を拝むことが出来ました。
釣り上げたイワナの姿を手に取ってマジマジと見つめていると、背後の藪から「ふふふふふ」と、男とも女とも言えないくぐもった無機質な笑い声が不意に聞こえ、急な出来事に「うわぁ!」と声をあげました。
視線を藪の方へ向け神経を傾けるも、聞こえてくるのは「ザーーーー」という川の流れる音のみでした。
藪を抜ける風の音だったのか、水流が川底の岩を舐める音だったのか、はたまた得体の知れない“何か”だったのか、今となっては確かめる術はありません。
何とも言えない不気味さを感じたまま渓を後にするのでした。
古今東西渓流釣りを嗜む大抵の釣り師は奇妙な体験談の一つや二つ持っているもので、それは釣り仲間との晩酌の肴に最適です。
しかし、“アオの寒立ち”だの“送り狼”だの“岩魚坊主”だの、山にまつわる伝説的な出来事はあまりにも多く、山中での恐ろしい出来事を山岳信仰として奉った当時の人々の心境には共感せざるを得ません。