今回は記事の和訳です。
8年で6回のタイトルを獲得したことで、マイケル・ジョーダンとシカゴブルズはバスケットボールの歴史上、最も偉大な王朝の1つであるという地位を固めた。
しかし、ブルズのフロントオフィスがチームの一新を図る動きを何度も行ったことで、この王朝が突然終わっていたかもしれないと考えるのは興味深いことだ。1993年にマイケルジョーダンが1度目の引退をしたのは、控えめに言っても衝撃的であり、ブルズを大混乱させた。結局のところ、もしチームの代表的な選手が全盛期の最中、辞めることを決心したら一体何ができるのだろうか?実際、ブルズは王朝をほぼ確実に終わらせていたトレードを数多く実現させようとしていた。下記はそのトレードの内の5つである。
ピッペンがブルズ→サンズに移籍
ピッペンのブルズ在籍後半期では数個以上のトレードのシナリオが浮かび上がっていた。最も有名だったものは、1995年にフェニックスサンズへトレードされ、チャールズ・バークレーとコンビを組むというものだった。そのトレードでシカゴは、ゼネラルマネージャーのジェリー・クラウスが賞賛していたダン・マーリーを手にするはずだった。
この年はマイケル・ジョーダン引退から2年目の年でブルズは苦戦しており、ピッペンは公にトレードを要求していた。フェニックスはピッペンが行きたがっていた場所であり、ピッペン自身もトレード交渉を広げていた。最終的に、シカゴはピッペンをチームに残すことにした。しかし、ジョーダンがこの出来事から数ヶ月後に復帰した時に、ピッペン-バークレーのコンビに対してどのように向かっていったのか気にしないのは難しいことだ。
ジェイソン・ウィリアムズがブルズに移籍(デニス・ロッドマンの代わりに)
変人デニス・ロッドマンはブルズの2度目の3連覇を達成する上で最も重要なピースの一つであった。しかし、シカゴはピストンズのバッドボーイであった彼とはサインしないつもりであったことが分かった。
報道によると、ジェイソン・ウィリアムズはブルズの最初の選択肢であった。1995年の夏、6フィート9インチ(206cm)のビッグマンがFAに入った。しかし、ウィリアムズはジョーダンとピッペンとブルズで手を組むのではなく、ニュージャージーネッツと再契約することを選んだ。ブルズはウィル・パデューをサンアントニオスパーズに送りロッドマンを獲得した。
クライド・ドレクスラーがスーパーソニックスに移籍
これはブルズとは何の関係もないことだが、もし実現していたらチャンピオンシップレースに大きく影響していただろう。
シアトルスーパーソニックスのHCであったジョージ・カールは、1995年にクライド・ドレクスラーを獲得しかけていたことを後に明かしたのだ。シアトルにドレクスラー、ゲイリー・ペイトン、ショーン・ケンプのビッグ3が結成されていたかもしれないのだ。しかし、どういうわけかポートランドは結局ドレクスラーをヒューストンロケッツに送り、ハキーム・オラジュワンとともに1995年のNBA優勝を成し遂げたのだ。
ソニックスは翌年、ファイナルでブルズと対戦することになった。知るよしもないが、おそらくシアトルはドレクスラーを獲得したことでシカゴをぐらつかせることはできただろう。
ピッペンがスーパーソニックスに移籍
ピッペンが絡んでいた最も大きな(そして実現間近だった?)トレードは、1994年のオフシーズンでのソニックスへの移籍だろう。
ブルズはMJなしで驚くほど競争的なシーズンを送ったが、フロントオフィスはピッペンを一番重要なスーパースターであると完全には自信をもっていなかった。ブルズはショーン・ケンプ、リッキー・ピアース、そしてシアトルの94年のドラフト指名権と引き換えにピッペンをウィル・パデューとともにシアトルに送ると報道された。
ジョーダン自身がESPNのドキュメンタリー”The Last Dance”でピッペンがトレードされていたら1995年に復帰することはなかったと明かしたため、この交渉が失敗に終わったことは良いことだった。
ジョーダンがニックスへ移籍
ジョーダンをニックスに連れて行く可能性に関して、ニックスがどこまで関わっていたのか、ブルズが実際にこれを実現させるつもりだったのかどうかは完全には分からない。それにもかかわらず、この話にはいくつかの根拠がある。
4度目のチャンピオンシップを獲得した後、ジョーダンは1996年の夏にFAに入った。MJは2,500万ドルの1年契約を望んでいたのだが、ブルズはどういうわけか躊躇していたのだ。噂として、ジョーダン陣営はフロントオフィスにジョーダンはニューヨークからのオファーを熟考しており、ブルズには契約にマッチするかより良いオファーを用意するのに数時間あると伝えた。時間のプレッシャーについて話すと、ジョーダンがニックスのスーパースター、パトリック・ユーイングの良き友人であったことを考えると、ジョーダン陣営にもある程度の影響力があったのだ。
ブルズは降参し、ジョーダンと1年3,000万ドルの契約を結んだのだ(1996年に!)。もう一度、ニックスがどれだけジョーダンを引きつけていたのかは分からないままだが、もしMJがニューヨークへ移籍していたらブルズの王朝は間違いなく終わっていたことは疑いの余地がない。
ブルズ王朝が崩壊していたかもしれないトレードの噂の数々は結局実現することはなく、ブルズは8年で6度のチャンピオンシップを獲得しました。
しかし、「もしピッペンがトレードされていたら・ジョーダンがトレードされていたら・周りのライバルチームがスーパーチームを結成していたら、一体何が起きていたんだろう」と考えることは非常に面白いです。
うろ覚えですが、ジョーダンは1994年の夏にウォリアーズのトレーニング場を訪れてウォリアーズの選手たちと一緒にスクリメージをしたという話もあります。つまり、ブルズではなくウォリアーズの選手として復帰する可能性も考えられたのです。
もちろんこれらは実現することはなかったということは強調したいです。
ただ、たらればの話をすることもNBAの醍醐味の一つだと僕は思います。
ブログを読んでいただきありがとうございます。
それでは失礼します。
引用元:
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます