皆さんは霊を信じますか?不思議なことには、興味を持つ。1+1=2ということには、殆ど興味を持たない。しかし1人の人間が、あの世の1人と相互作用があったとする、川端康成氏の伊豆の踊子に収録されている「抒情歌」から引用。
「この世の魂とあの世の魂と熱烈な一団の霊の兵士たちは、生と死とを隔てる人の考えの習わしを滅ぼし、二つの間に橋を架け道を開き、死別の悲しみをこの世からなくそうと戦っていると心霊学者達は言っております」
私はこの文章を読んで、地球に住んでいる人間とあの世の人間が相互作用を持つ可能性、それが形は違ったとしてもロマンチックだと思った。花の咲き乱れる綺麗な古都で、そういう美しさがあったらと古い感傷かも知れませんが感じた。
今年は、七夕にて天の河がみられなかった。もしかしたら、そういう1年に1回のロマンが、殆どみられる可能性は無くなるかも知れない。皆様の心に、サーっと流れてくる感情が無くなったならば、また一つ文化が無くなってしまうことになる。私は、肉体と意識(こころ)の繋がりを大切にしていて、生きていること自体が摩訶不思議な空間の中で、悔しさが晴れる伝達というものを考えていました。その一つに詩があります。
「恋に落ちた舞姫、今宵の空を眺める。愛すべきものは、花の結晶になりてわたしはただ一人、ただ一人の人間になります。衛兵が闇夜の前に、古汚い格好でずっと待っている。私は、テラスの窓を閉めます。別れの季節、悲しい別れの季節、よく生きてきたね?と寄り添った黄昏。あの日、虹をみたんだ、七色の綺麗な虹を。あの人にサーカスの前売り券があるよ、そう言われた時の可愛らしさ。わたしには、死別の言葉というよりも永遠に時が止まって欲しいと願い申し上げました。わからないで下さい。勇敢な戦士として、槍を持って儚く鎧をまとう幻影。空には、恋。空には、星。空には… いえ、何もございません。わたしは狂ったのでしょうか、水鳥が羽ばたく風景を脳裏に浮かべて、自分の心を落ち着かせたものです。恋から、震えるほどの怒り、哀しみ、悔しさが湧いてきた。何もなかった。七夕の夜に、あの人が天の河を通して、記憶の中に流れ落ちてくるように一年に1回だけの恋をしました。兵隊さん、いってらっしゃい…無邪気にわたしは云いました。聖書を持っていたんです。微風が吹いて、明日はどうすれば生きていけるのか恐ろしくなりました。幻影、幻影、幻影… 神を祀る偽の姿など要らぬ。わたしが舞姫のように輝いていた頃、とても「こころ」が豊かだったんです。あなたにかける言葉は、お喋りのピエロみたいに、茶化していました。兵隊に彼が行く前、幾重の夢の言葉をかけてくれたのです。お茶目になれよ、恋はわたしに染み付き、裏切りなど考えた事もありませんでした。歩調があった今、一歩、向き合おうとしている今、冬の暖炉の中で温かみをくれたあなたに告げます。わたしは最近、いいことがあったの…本当は風の音も、夢の人も出てこなかったけれど、何か兆候が感ぜられた。あなたは、無限の夢幻の塔にいて、喜怒哀楽の中で戦っているのね、ではわたしの秘め事なんてわからないでしょう。小さな春の息吹が射し込んできたのよ、3年後には小さな春の光と、小さな舞踏会で踊るわ、無くなった夢幻の生命を思いながら、よく生きてきたね?長い旅路の果てで、あなたと出逢う。その日まで花鳥気分でいるわ、私はまたその言葉をかけるから」
こういう風な古い詩を書いてみたけれど、いかがだったでしょうか。座っている彼女の横顔が、くるりとこちらを向いてワルツの中で、舞い上がって行く夢鳥。黒い鳥が、舞うようにやってきて夢鳥の邪魔をしようとする。けれども、君と重ねたモノローグは消えることはありますまい。