冷たい朝

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理系への招待

2021-02-03 06:22:58 | 物理学

春も近づきました。飛行機の音が、旋回して聞こえてくる。私はそんな時に物理学を専攻していた頃のことを思い出す。ノスタルジア。そう言われても仕方ありません。何故ならば、夢が現在進行形で走っていた頃の話だからです。才能は懐かしい面影。すっかり忘れやすくなりました。プルーストの「失われた時を求めて」のような作品は難しくて読むことが出来なかった。春がゆっくりと近づいてきます。20代が殆どない私にとって、研究は10年遅れています。人間には、目標がなければ生きていけません。古い言葉で言えば、大義でしょうか?行動というのは、動くゼンマイ時計のようなものであるので、役割を果たした後は、次第に減衰振動していきます。

春の息吹を感じるまで、随分と時間がかかる人もいれば、あっという間だという人もいるでしょう。高校生まではもの凄く時間がゆっくりと流れます。しかし、大学や専門学校に通うと最初の2年間が、はやく感じられます。私は夏目漱石の「坊っちゃん」の主人公の母校である東京理科大学理学部物理学科を卒業した後に、人の役に立ちたいと思って東京工業大学の院に進みました。理学部と工学部の基本的な違いは、自分の思考で新しい理論を発見したいか、人の役に立つことをしたいのかです。従って、理学部は大抵が哲学じみた考え方が多く、工学部はどちらかと言えば学習するうちに人の役に立つことが散りばめられています。しかし、理学部の方が断定的に10年くらい研究していて、基礎が違っていると言ったら曇天返しが起こるでしょう。個人的な意見を言わせてもらうと、私には理学部の方があっていたということです。実際に、神楽坂の毘沙門天の近くに住んでいました。案外、基礎的なことをしっかりしていないと気が済まない主義だったので、多少は神経質なところがあったと思います。

理学部は、基礎研究。

工学部は、役に立つ学問を身につける。

今回はこの二つに絞って、絶望や不安のうちにある方が逆に未来を明るくしてくれることを信じて理系2択で書いてみました。勿論、私のように大学院の研究所を中退した人間が語ることではないです。今、高校生の方などは参考にして下さいね☆

ちなみに、夜間(第二部)の東京理科大学に通っていた女性と東京大学を受けました。その試験では、英語を3割取らないといけなかったのです。私は、3割とれませんでした。その子は受かりました。


古典力学と量子力学

2018-12-28 03:42:14 | 物理学

量子力学という学問は古くからあるけれど、

①古典力学

②量子力学

の二つの学問に絞りたい。①と②の違いは何か。これは知っている人は多いだろう。

古典力学とは、ニュートンの法則(特に慣性の法則)で成り立っている。つまり、空気抵抗がない場所では止まっているものは止まる、動いているものは一定の速度でずっと動くというものだ。F=maという運動方程式を理解していれば良い。(F=力、m=質量、a=加速度)である。しかし、よく見ると不思議な式だ。質量と加速度を掛けたものがFになるという。(距離=速さ×時間ならば馴染みのある人もいるだろう)私自身、ニュートンの第二法則を高校の時に習ってその「たった4文字」がわからなかった。わからなくしている根源は何か、それはa=加速度である。果たして「加速度」とは何か?簡単にいうと、位置を2回時間微分したものであるが、ますますわからなくなる。「位置を時間で一回微分すると→速度、速度を時間でもう一回微分すると⇨加速度」である。
そこで、わかりやすく自転車を使って説明する。質量mとは「動きにくさ」の事である。また、加速度は自転車が止まっている状態から動き出してスピードが出るまでの勢いとイメージすれば良い。m=3Kgの時とm=100Kgの時とどちらのものを動かすのに力がいるだろうかと言った具合に。質量に、加速度を掛けたらFになる。ここまでの説明でニュートンの第二法則はイメージしやすくなったと思う。地球に住んでいる人は、大抵はこの法則で済む。

しかし、20世紀初頭になって特許庁で働き、趣味で物理学をやっていたアインシュタインという人が、うつらうつら眠っている時に「光の速度を一定にしてみては」と思いついたらしい。この発言から、宇宙の重力の強い所ではニュートンの法則が成り立たないことがわかった。そして彼は、特殊相対性理論と一般相対性理論を確立する。不思議なのは、19世紀に完成されていたマクスウェルの「電磁気学」と相対論が矛盾を一つもしないところだった。そうしているうちにシュレディンガー方程式で有名な量子力学が数人の天才たちによって確立される。今まで、原子はそれ以上は分解できないものと思っていたけれど、原子核の周りを回っているのが、電子であるから「原子核」もタマネギの皮を剥くようにもっと小さく分類できるのではと考えられたのだ。(相対論の話は置いておきます)それは、そうだろう。地球が自転しているのだから、ミクロな世界を考えるのも当然だ。そこで、量子力学が出来て、(物性論の観点から)小さなチップが作られて、その集積体が人工知能にまで発展した。

以上簡単に書いたけれど、スピンという現象が「自転」を意味する言葉と知っているならば、物理学のスピン↑↓のイメージも湧いてこよう。特に量子力学、統計力学を考える上でスピンとは何かと。


EMANの物理学のリンクを貼らせて頂きます。

スピン


霊はあるのか

2018-12-18 03:26:54 | 物理学

霊はあるのか。石原慎太郎の「弟」を読んで、そんな事を感じるようになった。今日は、母の命日である。母は、幼い頃から心優しい教師だった。何故、僕はこのような日に霊について書くのか疑問に思う人もいるだろう。僕の洋間の部屋には、文学全集があった。50冊くらいある文学全集から、生まれて初めて活字に触れたのが作家の「三島由紀夫」だった。幼い僕は、その本を指してこの漢字は何と呼ぶのか聞いたものである。母は大人になったら作家というものの描写の仕方がわかる旨を小さな声で囁いた。そうして、国語と心理学の教師は、注意をそらそうとディズニーの映画を見せてくれた気がする。また、僕が建築に興味を示すと、シルバニアファミリーの家族を買ってきてくれた。目を閉じてと母は言った。

僕は、20才の成人になっていた。それまでに、色々な事があった。青春時代の思い出はここでは省こう。大学に入学した。常に、母が支えてくれた事を示そう。僕は九段下の満開の桜の下で入学式を迎えた。そして、すぐに学友が出来た。最初に友達になってくれた学友は自由が丘に住んでいた。学業に励んだ。それから、ふと生まれた時から忘れられない「国語の先生」と呼ばれた三島の文学を読み漁る機会が来た。文章は、僕よりも何段も上で「死」の予感を漂わせながら、すれすれで輝く女性の描き方がもの凄くうまかった。中でも「沈める滝」は、傑作だった。昭和の中で「あなたは私にとってダムでした」と男の凛々しい姿をいうのである。一方、主人公の貴公子、城所昇は功利主義の役割を果たす小物、瀬山が「感動しない人が好きなんだ」とヒロインに告げ口するところを出世や位相の為に、茂みの中で隠れてきく。女性を引き止める事なく、茂みから出ていかないのだ。そうして、ヒロインは(ダム現場の壮絶さをみて)「あなたはダムでした」という。

古代ローマから、霊についてはずっと考えられている問題である。それは、雰囲気が盛り上がっているところではわからない。また、わかるはずもない。そうして、僕は24才の11月24日から書かれた「仮面の告白」という作品に辿り着く。そうして、三島神話が終わり、石原慎太郎が治める東京都で、市ヶ谷の隣の神楽坂で、女だけが行列になって踊る阿波踊りを彼女と見ることになる。僕はちらりと女たちの群れをみていた。「仮面の告白」では、キリスト教のお嬢様に「いつ?」「どなたと?」と童貞を捨てた事を何回も聞かれて、疲れ切って男たちをみて終わる。僕は「女を見ていた」


時間が存在する錯覚

2018-12-14 11:34:02 | 物理学

我々は、時間が存在するという事を当たり前のように感じている。実際に、「時間」が存在しないと困るのだ。スケジュールを立てる時も、カレンダーを当たり前のように使って、未来に起こるべきであろう計画を立てていく。しかし、仮にビックバンがあったとして、その時の状態がHe(ヘリウム)で占められていたとする。しかも、単純な振り子のように質点が「区別できないもの」であったとしよう。その時、皆さんは、振り子が宇宙空間の中でただ左右に揺れている事を想像できるであろうか。そうして、それをのんびりとビデオで撮って、巻き戻しをした時に「区別ができるものである」だろうか。

 

まず、①左の図を見てみよう。2次元である。左右に何回も単振動しても、巻き戻しをする時に区別がつかないのである。しかしながら、②右の図のように、青い矢を手前から向こうに放つ。そうすると、仮にビデオカメラでこれを巻き戻ししたら、紫の矢のように向こうから手前に戻ってきて、「時間の区別」が出来るではないか。こういう考え方をしていくと、時間が存在しているのは、一個の質点(粒子)ではなく、多数の粒子が宇宙にランダムにあり過ぎるから、時間が存在しているようにすら思われる。アインシュタインの「相対性理論」に触れる上で基本的な考え方なので、発想を覚えておくと良い。

 

一方、最近の物理学者の中には、時間自体が存在しないと考える人もいる。「現在のこの瞬間が最新の宇宙である」という考え方だ。それでも、腕時計や鳩時計をみていると、やはり時間というものは目の前で動いているのだから、過去・現在・未来が存在して当たり前だと普通は考える。しかし、これにも反芻があって、生きている事とそもそも実在しない人間がいる事(生と死)を考えてみて欲しい。近代芸術では、生まれ変わりなど「大乗仏教」を中心とした輪廻転生の概念がある。そして、「時間とは過去に向かっても、未来に向かっても無限に広がっている」という常識がある。この辺を考えて仏教が支持される理由を、まるでコペルニクス的転回のように考えてみても面白いのではないか。