以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。(ガラテヤ1:13~14)
パウロの熱心は神が準備してくださった福音を破壊する熱心だった。それは信仰ゆえの行為であったが、的外れの信仰は霊の盲目による悲しい罪である。
けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。(ガラテヤ1:15~17)
神に選ばれイエスさまに出会って霊の目が開かれたパウロは、成すべきことを直ちに行うために向きを変えた。彼を使徒と認めたのは主であり、彼に語ることばを備えるのも主である。
それは、霊に在ってはただ神に拠り頼む者として、使徒たちとは従属する関係ではなく対等の位置に居るためである。主に在っては互いに教え合う必要からである。
教会に預言が与えられた時も従属した位置で伝えると、人間的な量りによって神のことばが軽んじられてしまうことになりかねず、それは教会には罠となってしまうことがあるからである。
パウロがペテロに従属していたなら、ペテロの間違いを正す言葉も差し引かれていたのである。
それは人の謙遜や処世術のようなものを入り込ませない、主の権威に在るキリスト者の位置である。イエスさまはパウロの救いに人を関わらせられた。パウロは受けた人の愛を知っていて生涯教会の人々を愛した。ただ、その愛は、主のご計画を成し遂げることを通して愛する愛であった。
「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いてだけはいたので、
彼らは私のことで神をあがめていました。(ガラテヤ1:23~24)
神はパウロのすべてを用いられる。教会を迫害した過去を知る人々は、新しく生まれ変わったパウロの言葉を聞いたとき御名をあがめたのだ。
素直に神のわざを見る者は神をほめたたえる機会を得て、それまで見たことも聞いたこともないキリストの奥義に触れるのである。