もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。(Ⅱコリント2:10~11)
訴えるものはサタンであり、キリストは十字架の血潮で罪を洗いきよめて下さる方である。
今、自分がどちらに居るのかを見張っているべきである。心が誘惑されて自他を訴える言葉が来た時は、直ちに血潮によって洗われ平安に居ればよい。
神の国とゲヘナを行き来することはできない。留まる所は一つである。
神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。(Ⅱコリント2:14~15)
このことは、感謝から出て感謝に至ることである。現れる知識の香りは、うちに居てくださるキリストから流れ出るものであって、すべては聖霊の働きに拠って伝えられることである。
私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(Ⅱコリント2:17)
福音は律法という混ぜ物はしない。律法は人の心を満足させるが、福音は神の心を満足させるものである。
神から遣わされた者は、自分のことではなくキリストに在って語るのである。