石ころ

弱さを覆う神(創世記19章)

 

神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。(29)

 

願ったことが上手く行ったからと言って、それがみこころであったとは限らない。それは神の忍耐と、執り成しの祈りの結果と言うこともある。それは平安によって分かることである。

 

ロトはツォアルから上って、二人の娘と一緒に、山の上に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼と二人の娘は洞穴の中に住んだ。(30)

 

ロトがツォアルの町を恐れるのは当然である。そこは彼が選んだ場所であり、神の備えられたところではなかったからである。

平安は神の備えの中にしかないのだ。しかし、ロトが人の住まない洞穴に住んだことで、問題を生むこととなる。

 

姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。
さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう。」
その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。(31~33)

 

そのことが、娘たちにとんでもない遣り繰りをさせる結果となった。彼女たちの遣り繰りによって生まれた子孫も、歴史の中で神の憐みのうちにあった。

人の愚かさや弱さにあっても、神のご計画が完成されてゆくことは、神の愛の大きさに拠ることであろう。

 

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、(エペソ3:17~20)

 

人が何かをすれば、その弱さや愚かさによって失敗の恥が現れる。しかし、全能の神が永遠を見通して働かれるとき、それら私たちのしでかした問題が大きかろうと小さかろうと、何の妨げにもならないのは、神は初めからすべてをご存じだからである。

 

こうして、ロトの二人の娘は父親によって身ごもった。
姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。
妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。(36~38)

 

神は弱さゆえの失敗には常に寛大である。人は、その弱さをもって神に依存する者だからである。
神はご自身の計画を遂行される方である。モアブの女ルツの子孫からダビデが出て来るのである。それは私たちの何かにはよらず、神のご計画によることである。

 

それゆえに、誰であってもみこころを行うことができるのだ。すべては主により頼む者に完成してくださることである。
完全な神の助けと備えの中で、時に達成感を味合わせ、喜ばせ、満足させても下さる。

私たちに何事かを成すことが出来るのは、主はご真実であって、選びの責任を完全に取ってくださる御方だからである。

 

ユダヤ人にも異邦人にも神の良きご計画は、天地創造の初めからの計画であり、「善悪知識の木」は人を支配ためではなく、歴史の中で神に応答する者との交わりによって、永久まで子として愛するためのものであった。愛は応答する中で完成するからである。


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