石ころ

聖霊によって神のさばきに服す(創世記4章)

 

しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。
アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。(3~8)

 

 アベルとカインの記事を読んだとき、人は一様に戸惑い神のさばきに違和感を覚える。カインに対して理不尽と感じるからである。そこで色々な理屈を考えだして納得しようとするのだ。

 

神に捧げものを先に持って来た兄が無視され、弟が喜ばれた。確かに弟は最上の捧げものを用意していたが、農業の兄は最上も下等も羊を持ってはいないというシチュエーションである。

 

 聖書を初めから読み進んで来て天地創造の神の御力と、背いたアダムへの愛の配慮も知っている此処で、突然の心変わりのような神のさばきに戸惑うのである。

 

この違和感の出所が、神に対する無条件の「アーメン」が無いからであると気付いた。そのままで受け入れられない、納得できないという感情は、自己中心の肉からのものであり、それは自分の納得や理解を常に求める。

 

しかし聖霊に導かれれば単純なことである。神がアベルの犠牲を通しても教えたかったことが此処にある。
人のいのちを守るためには、神が「良し」と認められたことがすべてであり、そのことに人の理屈も条件も通用しないということである。

 

神がいのちを守るために人に教えなければならないことは、完全な服従であり謙遜である。そのことを学ばなければ、永遠の滅びが待っているからである。
この服従がなければ、神に代わって不義を打つと、神のように振舞うようになるのだ。

 

 親は幼子の命を守るために、まず「駄目」という命令に従うように教えるが、人間はやがて親と同じかあるいはそれ以上に成長することもあり、成長に応じた納得や説明や話し合いがあって、やがては親が教わるようにもなる。

 

しかし、人は神と同じになることは決してなく、神は人の創造者であってその立場が入れ替わることは決して無い。神が人を祝福に導くためには、生涯を通して従わせることが必須なのである。

 

人の最大の罪は、神のすべてのことばに「アーメン」と言わないことである。それは、神が愛しておられる人を滅びに至らせるからである。


しかし、人の肉は神に対して一々納得を求め説明を要求する。そのような肉を治めるために、聖霊が助け主として信仰者のうちに来てくださった。

 

 聖霊は神を知ることを助け、神に愛されていることを教えてくださる。神の守りが必要なことを経験させて、心配してくださる神の臨在を知らせてくださる。理屈ではなく霊の深いところからの信頼によって、神のさばきに安息させてくださるのである。

 

そのとき頑なだった心はやわらかにされて、素直に神のことばにひれ伏す喜びを経験するようになる。その人は、どのような神のさばきにも、心から「アーメン」と叫んで喜び受け入れる。

神の愛を経験しており、愛する方に「従順」という捧げものを得たことは誇らしいからである。

 

神のさばきに対して、肉を治めて従順することを人類に教えるために、初めにアベルの犠牲があった。此処を「アーメン」と通って神を恐れることを躾けられ、良きご計画を世に現わして行くのである。


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