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石ころ

造り主の愛 (三位一体の神)



神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そうして彼らにすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1:26)

神は人を愛の対象として創造されたことがわかる。人に対するワクワクとした期待が伝わって来る。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)


しかし人は神のこのただひとつの戒めに聞き従わず、罪を犯してしまった結果、

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(黙示録3:9~10)


人は神の光りの中から逃げて物陰に潜むようになり、自身を取り繕う者となり、神を恐れて避けるようになった。
罪が入ったことで愛の関係は壊れ、人はもう神との愛の交わりに安息することはなくなった。
そこで神はそのような不幸な関係が永遠に続くことがないようにと、園から彼らを追い出された。

神の愛は片思いになってしまった。なぜなら、人は神を愛と信頼の対象としてではなく、裁き主として逃げ隠れするようになったからである。
そうして、人は自分勝手な生き方をするようになり、自ら造り主に変わる偶像を作り出し、それらに仕えるようになった。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神・・、(出エジプト20:5)

これは神の悲痛な愛の叫び。
人は造られた者として神に従順する立場にあるが、愛は対等なものである。だからこそ神は人に執着されるのだと思う。対等な愛を満たすのは人でなければならないから。

しかし神のかたちを持つ人は、自身の中にも割り符のようにぴったりと合う造り主に対する渇きも持っている。決して偶像の神々では満たすことの出来ない渇き・・。

だから、永遠の愛をもつ神は人を取り戻すご計画をもっておられ、罪にまみれて行く人の歴史の中にも、犠牲を伴いつつ関わり続けてこられた。

人への神の愛は今も少しも変わることはない。三位一体の神はそのすべてをもって人をあがなう計画を立て、すでに完成してくださった。
しかし、人は今も造り主なる神を避け続け、どうしてもその愛にどっぷりと浸り安らうことが出来ないで居る。それは造り主の愛というものを知らないでいるからなのだと思う。どれほど愛されているのかを・・。

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