石ころ

弟子の条件⑥(ヨハネ20章)

 

朝早くに、マグダラのマリアはイエスの墓を塞ぐ石が取り除けられて在るのを見て、ペテロやヨハネに知らせた。

 

ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。(4~5)

 

ふたりの性格がよく現れている。ヨハネは懸命に走って先に墓に着いたが、躊躇して中を覗き込んでいた。後から走って来たペテロは、墓の中に飛び込んで行って、イエスを巻いていた亜麻布が頭の部分と足元に落ちているのを見る。

 

シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。(6~7)

 

生々しい描写である。それはまさしく、死者に巻かれている亜麻布を振り落として、よみがえられたイエスが立ち上がる様子を見るようである。

 

そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。(8~9)

 

イエスの復活を信じたのか・・と思ったが、マリヤの言葉を信じただけだったのだ。
彼らは、イエスが死者を生き返らせる場面を何度か見ているのだが・・、あまりにもイエスの死はショックが大きくて、見たことも聴いたことも思い出せないほどに、思考停止してしまっていたのだろうか・・。

 

なを、彼らがそのまま家に帰ってしまったのは、いよいよ気落ちしてのことだろうか・・、空の墓に留まっても無意味だと思ったのだろうか・・。そういうのは男性の思考に多いように思う。

 

女たちは去らなかった。此処ではマグダラのマリアだけが書かれているが、マリヤもいたことがマタイには書かれているし、「私たち」と書いているので二人のマリヤが居たのだろう。

 

しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。(11)

 

それまで、彼女は自分の目で墓穴を確かめていなかったのだ。事実の確認が恐ろしかったのだろうか。それを乗り越えることができたのは、留まって泣き続けている間に、前に押し出されたのは涙にある愛の力である。

 

すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(12~13)

 

此処の記述はマタイとは少し違ていて、彼女たちの取り乱した様子がよくわかる。いきなり御使いに出会って普通に答えること自体、普通でないことがわかる。

 

彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」(14~15)

 

御使いであろうと、墓の管理人であろうと、そんなことはどうでも良かったのだ。ただ、ただ、イエスを一心に探し求めていたのだから・・。

 

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。(16)

 

彼女はイエスに名を呼ばれた時、その御声によって我に返った。何時も呼ばれていた通りだったからである。
主とのお交わりの中で、語り掛けられる御声のイントネーションによって、どんなに悲惨な時も、取り乱し混乱していても、主に在る我に返ることができるのは、繰り返し聴き続たみことばによる。

 

日々の聖霊による導きは、聴きなれたみことばのイントネーションが自分の霊に在って、主の臨在を見分けることができるのである。それゆえ、恐れることなく墓穴を覗くように、恐れることなく、色々な人よって語られるみことばを聴くことができるのである。

 

イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」(17)

 

二度と見失うまいとすがりつく彼女に、イエスは、限りある御体によって確認するのではなく、もう、決して見失うことのない永遠の神の家族として、キリストのうちにおらせるために、御父のもとに上ること告げられた。

 

彼女は墓に留まってイエスに触れることが出来た。そうして、永遠の望みのことば「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」という、約束の言葉を託された。

 

やがて戻ってこられる主は栄光のからだをもって、誰も傷つけることのできない方として来られる。
イエスの父なる神は、キリスト者の父なる神であり、イエスを兄と呼ぶ神の家族の約束を受け取ったのは、慕い続けて墓に留まった彼女たちであった。


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