石ころ

霊のからだの望み

 

 イエスは霊のからだをもって、弟子たちが隠れている家に来てくださった。そう、鍵も壁も遮ることはできない新しいからだである。その御からだには、あがないの聖なる傷跡が残されていた。

 

以前、天国にある新しいからだの望みを口にした時、「死んだら霊ですよ。」と返されて驚き、何も言えなくなったことがあった。その場では毎週、使徒信条「からだのよみがえり」と唱えていたからである。

 

 イエスさまの様子から、新しいからだがどのようなのか知ることができる。それはなんという望みだろう。
人は生まれながらに、また生きている間にさまざまな障害を負う。目に見える部分に限らず、たとえ他人には分からなくても、誰でも年と共に思うようにならない体に悩むようになるのだ。罪をもった体は不完全であり、皆滅びに向かっているからである。

 

 やがて、新しく完全なからだを戴いて、耳が聞えない息子は聞きたがっていた小鳥の声や、風の音を聞くだろう。父母の声を聞いて兄弟の呼ぶ声を聞いて、驚きをもって心から主を賛美するだろう。

 

目の見えない人は、家族や友の顔を見て喜びの声をあげるだろう。花や木々、果実を見てその美しい彩に神をほめたたえるだろう。

 

体の弱い人は思い切り駆け回り、流れる汗の爽快さを知って、神の御前に駆けて行き平伏して礼拝するだろう。
指の無い人は、美しい手で楽器を奏でてうっとりと、主を見上げ賛美を捧げ続けるだろう。

 

そう、創造の初めに造られたアダムとエバの完全を、神はそれぞれにあがなってくださるだろう。この世で得られなかった神の作品のすばらしさを、きっと知らせてくださる!

 

 助けを必要として生まれて来ることは、世が人に優しい心を養うためである。弱さをもって生まれ来ることは、世が庇う力強さを養うためである。そうして人が人らしくなるために・・。

 

神は世で、すべての人を完全な姿に癒やしたりはなさらない。それは全く無味乾燥で味気ない世になるから・・。それは助けも憐みも支える力も知らず、愛をどのように表現したら良いのかわからない世界だろうから・・。

 

 霊のからだで来てくださったイエスによって、トマスの不信仰は癒された。今、私たちはイエスを見てはいないけれども信じており、やがてお会いする望みにあふれている。

 

また、みことばのうちに日々共に居て下さり、信仰による祈りの中に、主のご真実を折りに触れて見せてくださる。些細な日々の暮らしのことから、望みの神の国のことにまで・・。


また、人となってくださったイエスは、人の心の脆さから、不自由な体のことまですべての必要を知っていて、同情していてくださる真実なお方である。
それゆえ、世のあらゆる問題の中に在っても、深い平安のうちに住まわせて頂いているのである。

 

 新しい完全なからだを与えられた時、御足もとに泥のようにひれ伏すだろう・・。それはどんなに嬉しいことだろう・・。
そうして息子と賛美しよう・・、たまわった麗しい声でいつまでも何時までも・・。

 

 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)


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