イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、
手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。(ルカ13:12~17)
安息日に癒された女を、律法を持ち出して非難した人をイエスさまは導かれた。何が良い事で神に喜ばれることかは、みことばによって律法から解放されないと、人にはわからないのである。
悟った人々はすぐに恥じ入り悔い改めた。それはどれほど大きな祝福となったことだろう。イエスさまは彼らに神の国の祝福を語られた。
そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。
それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」
またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」(ルカ13:18~21)
信じないと見えない神の国。からし種は目につかいほど小さなものだが、神によって養われる鳥が住まいをもうけるほどに成長する。
目に見えないパン種は、5つのパンでイエスさまがすべての人を満たしたような、すみずみまで行き渡って豊かに養う、それが神の国。
そこでは飢える者も家のない者も居らず、すべての必要が満たされいのちが充満しているのだ。
すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:23~24.34)
努力することとは、イエスさまの熱心によって語られるみことばを、聞いて「恥じ入る」時を失わない努力であり、聞いたみことばに従順する行動である。
しかし、人はそれを好まない。だからそこは狭い門である。救われるにはこの門を通って入ることのみであり、他に天の御国に入る方法はないのだ。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)
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