石ころ

愛と聖絶 ②(申命記11章)

 

こうしてアナク人は、イスラエルの子らの地には残らなかった。ただガザ、ガテ、アシュドデに残るのみとなった。
ヨシュアはすべて主がモーセに告げられたとおりに、その地をことごとく奪い取った。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族への割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに与えた。そして、その地に戦争はやんだ。(22~23)

 

今聖絶の神は平和の神として、キリストの救いを信じる者うちに住んでいてくださる。
聖であり義であり、また完全な愛である神が、未だ肉を纏っている者のうちに住んでいてくださるとは、なんと驚くべき奇跡であろう。

 

それはキリストの十字架のあがないが、神の御前に完璧な執り成しであり、神の聖と義を完全に満たしたからであって、一ミリも人の行いに拠ることではなく、キリストに対する信頼に拠ることである。

 

これほど恵みに、人は何を差し出すべきであろうか。見合うものの何もないことを教えるために、キリストはあえて罪人を選び、取るに足りない者の所に来てくださるのである。

 

イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。(マタイ11:25)

 

この幼子とは無垢を例えているのではなく、無知を言っていて、キリストは無学な者何の望みも無い者の所に来て奥義を語り聴かせてくださり、深い渇きを癒やしてくださるのである。

 

そのときサマリヤの女のように、命の水瓶を捨ててこの救い主を伝えるために走る力をたまわる。そのとき自分が何者であるのかなどは忘れている。

 

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(Ⅰコリント1:21)

 

誰の賢い言葉によって神を知ることが出来るであろう。見たこともない神のことばに、命を賭けることが出来るであろうか。

しかし、救われた者は罪科の重圧から解かれた喜びを、隠しておくことが出来ないのだ。

 

キリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったこと、天地創造の神を「アバ父」と呼ぶ関係が回復され、親密なお交わりをたまわっていること、永遠のいのちの未来が待っていることを、知らせたくてたまらないのである。永遠の幸いを!

 

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(Ⅰコリント1:27)

 

神が愚か者を用いることが出来るのは、その罪をあがなうに遙かに上回って高額な代価が支払われているからである。それが罪なきキリストの命の価値なのだ。


主は救われた者に「あなたは高価で貴い」と言われる。それは支払われたキリストの血の値を指している。

これほどの代価をもって主は「わたしはあなたを愛している」と言われた。父なる神と御子キリストが用意してくださった愛の中に住まうのである。

 

人はキリストの命を奴隷の価値に量って銀30枚を支払ったが、神は、罪のないキリストが罪のために支払われた命に無限の価値を付け、その代価をもって信じるすべての人を、御許に買い戻してくださった。

 

サタンがアダムたちに仕掛けた死は、贖い主であるキリストが死からよみがえられて完全に勝利され、人はキリスト信仰によって永遠のいのちの恵みに与るのである。サタンが仕掛けたいのちの戦争は止んでいるのだ。

 

この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に飲み込まれた。」
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54~55)


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