石ころ

愛と聖絶①(申命記11章)

 

ヨシュアはこの全地、すなわち、山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、シェフェラ、アラバ、イスラエルの山地とそのシェフェラを奪い取った。
彼は、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとの、レバノンの谷にあるバアル・ガドまでを攻め取った。その王たちをことごとく捕らえ、彼らを討って殺した。(16~17)

 

彼らは天地創造の神の地に住みながら神に逆らって地を汚した。ヨシュアはそれらを神の御支配に取り返し、その地の汚れをきよめたのである。

 

今主は信じる者のうちを、キリストの十字架の血潮できよめて住んでいてくださる。
新しくされたキリスト者は、魂のうちに古くから住みついている諸々の誘惑や、苛立つよこしまな思いを、聖霊の導きの中で排除して、主のものである自身を、魂を霊に従わせる戦いのうちに明け渡して行くのである。

 

長い間にわたってヨシュアはこれらすべての王たちと戦った。
ギブオンの住民であるヒビ人以外に、イスラエルの子らと和を講じた町は一つもなかった。イスラエルの子らは戦って、すべてを奪い取った。(18~19)

 

ギブオンが選び取った神に対する謙遜が、どれほどの価値なのかを思い知るのである。主に遜って救いを求める者に彼らの罪を問われなかった。主に信頼する者の弱さが救いに至るのである。賢さや正しさではない。

 

キリストは救いを求めて来た者の罪を暴いて、退けることは決してなさらない。それは、彼らの罪の病を癒やすために来られ、御体を持って罪の代価を支払ってくださる方だからである。


キリストに来る者は自分の罪を知っており、とうてい自力で罪の代価を支払うことが出来ずに来ている。主は彼らの負いきれない罪をご存じだから、待っていてくださるのである。

 

キリストが罪を暴いて責めるのは、自分を正しいと認めている人々に対してであり、他人の罪を暴いて裁き神の座を占めている人に対してである。
主は彼らの人前での善行と、キリストを殺すほどの自己中心を、腐っている墓のようだと責められた。そう、罪に気づくことの無い彼らはすでに死体なのだ。

 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。(マタイ23:27)

 

十字架の贖いは、過去、現在、未来にも及ぶ備えであり、それは永遠に通じる贖いであって時間を越えて有効である。
救われる者は神の主導に在って、救いの日まで彼を導いておられ、罪の痛みに耐えかねて救いを求めるのを、忍耐して待っていてくださったのである。

 

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)

 

信仰は非常に個人的なことであり、ある条件を満たすことによって救われると言うものではない。
彼らは主の備えに応答したのであって、聖さに対する激しい渇きによって聖霊の備えに応答し、眠っていた霊が目覚めたのである。

 

選ばれていない者とは誰か、神に渇く間がないほどに世で充実しており、きよさに飢えることも渇くこともなく生きている者である。
彼らには罪を癒やす医者は不要であり、それゆえ聖霊が触れる隙も無い。信仰は応答するものだからである。

 

彼らの心を頑なにし、イスラエルに立ち向かって戦わせたのは、主から出たことであった。それは、彼らを容赦なく聖絶するため、主がモーセに命じられたとおりに彼らを根絶やしにするためであった。(20)      

     

拒絶する者は初めから神に知られており、彼らが天地創造の神を認めることはない。そのとき、主は彼らの心のままにいよいよ頑なにされる。彼らを罪と共に絶つためである。

 

神はイエスを「これはわたしの愛する子」と言われた。人が、愛するひとり子をたまわるほどの神の愛を拒絶することは、どれほどにか、みこころを痛めその拒絶は怒りとなる。この神の愛の関係を拒絶することこそ人類最大の罪である。

 

どんなに親切な人でも愛する一人息子を、犯罪者を救うための身代わりに死刑に差し出す者があろうか。
罪を贖われて滅びから解放されている事実を知ろうともせず、神の愛を無視し続けるならその選択によって滅びる。創造の目的を果すことなく、神との永遠を望んでいないからである。

 

そのときヨシュアは行って、アナク人を山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断った。その町々とともにヨシュアは彼らを聖絶した。(21)

 

ヨシュアは主の命じたことをすべて行い勝利した。主が彼と共にいてくださったからである。神はこの地を、ご自身に信頼してみことばを聴く者に支配させ、神の愛を望む者に与えられる。

 

それは、みことばの真実によってアブラハムに約束された通りに、子孫が繁栄して神の栄光を現わすためである。
天も地も、すべての生き物も創造主の喜びの存在であるべきで、このことを教えるのは聖霊である。

 

人はどれほど言葉を尽くしても、御霊によらなければイエスを主と呼ぶことは出来ず、キリストを知らない者が創造主を知ることはない。

みことばによってキリストに出会うとき、天地創造の神を知るのである。すべては聖霊によって霊の目を開かれたことによるのだ。

 

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(ヨハネ14:7)

 

創造主を認めない者は反逆の罪も分からず、キリストの十字架に救いを求めることも無い。
どれほど進化論の矛盾が明らかになろうとも、信じない者は賢い理屈によってみことばを愚かな言葉とする。

 

神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(1コリント12:3)


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