石ころ

「神の子」と数えられている者(出エジプト30章)

 

あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。(12)

 

 この箇所を思い巡らせていて洗礼を思い出した。洗礼を受けてその組織の一員とされには、それなりに支払うべき犠牲がある。

それはキリスト信仰を告白すると、行動も考え方も180度変わるようになり、人に倣って生きて来た者が、みことばによって、イエスを第一に生きる者に生まれ変わるからである。

 

世に生まれて見えるものに命を掛けて来た人が、目では見たことも無いキリストを、みことばを通して見るようになり、命を賭けて愛するようになるからである。それゆえ、初めに神の選びとキリストに導く聖霊の助けが必要なのである。

 

 その時、聖霊によって自分自身が神の民であることを確信するようになる。自分のたましいが、御子をたまわるほどの神の愛を受けていることを悟るとき、キリストの平安に包まれて、魂の居場所が明確になることで、人は安息を得るのだ。たとえ戦場に在っても・・。

 

あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。(15)

 

 神の民のたましいの価はみな同じなのである。タラントはそれぞれであり、それによって捧げられるものもそれぞれあるが、たましいの価は神の前に同じであり、記念として残せる分も同じである。

神の愛は何の差別もなく、すでに一人ひとりを100パーセント愛しておられるからである。

 

今、聖霊に拠ってみことばから主を親しく知ることで、神の愛を日々に満喫しているのである。キリスト者のわざわいとは、みことばの悟りを取り去られることである。

どれほど愛されていても、主を知ろうとしなければたまわている愛を味わうことは無く、キリストの平安も知らず、明日を思い煩って世を彷徨うことになる。

 

 ヨハネは「イエスの愛された弟子」と自称しているが、今私たちは聖霊によって導かれるみことばを味わい、ヨハネに勝る確信をもって「キリストに愛れている私」と告白し続けるのである。
キリストによって神の子と天で数えられてあり、神の愛の充満のうちに生きているからである。そう、永久まで・・。


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