主はモーセとアロンにこう告げられた。
「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。」(1~2)
ツァラアトという伝染性の皮膚病は、祭司が隔離や汚れの宣言について判断をしているので、医療と言うよりは霊的な支配を感じさせる。
霊の状態がいのちに影響を及ぼすことは、神が創造された死ぬことがない者から、死ぬ者となったことでわかる。
霊に働く神のメッセージを受けて、からだは健やかだったり痛んだりするだろう。肉体も、魂にある心や感情もそれは一つの器に在るのだから。
もしも、そのツァラアトが皮膚に生じて、祭司が目で見るかぎり、ツァラアトが頭から足まで患者の皮膚全体をおおうようなことがあるなら、
祭司がそれを調べる。もし、そのツァラアトがその人のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。(12~13)
全身がツァラアトに覆われたらきよいと言われたことに深い意図があり、また、ツァラアトの現れが皮膚よりも深いかどうかを、祭司が見ることにも意味が深い。
すべてが露われて、隠れている斑状態がなくなり全身が白くなったことには、すでに主のお取り扱いを受けて、洗いきよめられていることを思わされる。
誰であっても自分の聖さは斑状態であり、完全な者はいないのだから、霊的には皆病人なのである。だから、イエスが罪をきよめる医者として来てくださったのである。
イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
主により頼むなら、罪に病んで癒やしを求めることは、永遠の滅びから永遠のいのちに移されるチャンスとなる。キリストの血潮によって洗われて「聖い」との宣言を賜るなら、世に生きる間も霊、魂、からだは主のご支配の平安を生きるのである。
病は主のお取り扱いのようである。重い病を負う人もあれば、ほとんど病を知らない人もあろう。そのことは幸せのようではあるが、病の苦しみを知らない人はそれが当たり前であり、感謝がなければ主に触れられる機会は得られない。
感謝の中にある健やかさは大いなる祝福であるが、病むことにも時に主の選びのようである。御手の中に追い込まれる導きとなり、何事であれ主に追い詰められることは、御目を止めていてくださることであり、良い計画を持って導いてくださっていることである。
それは、鈍い者が主の恵みを味わうチャンスであって、取り扱われることを恐れる必要がないのは、主は良い方であり、歴史において御子をたまわるほどに愛されている事実があるからである。
自分の罪の深みに絶望の淵を歩んだ者は、生きるために主を求めて叫ぶのである。ヨブのように・・
神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。(ヨブ記9:32~34)
ヨブは神との仲裁者であるキリスト求めて叫んでいる。仲裁者が取り上げられる恐怖を、彼は味わっていたのだ。
人の部分的な正しさを主張しても、その不完全は神の前では汚れであり、すべての人類は唯一キリストの完全な救いである十字架を通って、完全に聖とされるのである。
皮膚の深くに潜む罪に気づいて絶望が斑に現れる出る者に、キリストの憐みはその身を覆い、全身が雪よりも白くされるのである。
ただ主によって聖いと宣言された者の幸いは、罪を自覚していない人が生涯知ることのない、霊の健やかさを得て、それは魂もからだも支配して聖くし、憂いなき感謝のうちに生きる者とされるのである。
ツァラアトは衣類にも壁にも繁殖するものであった。それはまさにカビのようである。それは目に見えない奥深くで根を張って、外に現れ出てくるのである。良く見張っていないければ深くに根を張って汚染されるものである。
人は聖霊によって見張られる必要があり、それは罪を見張って聖徒を守る力である。祭司はツァラアトそのものと戦う者ではなく、互いにみことばを語って見極め、時に世から隔離して、罪から身を避けさせる者である。