キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3~4)
イエスさまは歴史的事実として十字架によって死なれ、墓に葬られ、よみがえられた。墓にはイエスさまの遺体も骨もなく空であった。
よみがえりのイエスさまは使徒たちに現れ、彼らはよみがえりのイエスさまに会ったことで、宣教の働きによる迫害も死をも恐れなかったのである。
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。(Ⅰコリント15:5)
500人以上の人が、嘘に命を賭けることはありえないことである。
もし、彼らがイエスさまの復活を偽っていたのなら、彼ら自身がもっとも憐れな者となる。神を偽った罪を負うからである。
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。(Ⅰコリント15:14~17)
アダムの罪によってすべての人は死ぬ者となり、キリストの復活によって信じる者には、滅びることのないいのちが与えられるようになった。
イエスさまのあがないによって人は神さまと和解した時、サタンの支配する死は力を失ったのだ。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。(Ⅰコリント15:20~21)
今やキリスト者の死は神の栄光を現すものとなり、世に在っても望みに溢れて大胆に生きる自由を得たのだ。
キリスト者の生き方は、みことばをどれだけ知り、どれだけ受け入れたかということを現している。みことばは信じた分だけ、その人の事実と成るからである。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:42~44)
みことばは将来の約束であっても、信じた瞬間に自分のものとなる。神さまは御自身を否むこと出来ないお方であり、約束は御自身の真実によって成る。私たちの真実ではない。「私たちは真実でなくても」である。
だから、信じた瞬間から復活のいのちに居るのである。死は通過点に過ぎず、殉教の先人たちもそのように生きたのだ。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。(Ⅰコリント15:58)
これは、主のわざに「満ちあふれ」なさいであり、聖霊の備えと導きに拠って主を知ってゆくこと。みことばを知りたいと願わないならキリスト者でさえない。それは主に無関心ということだからである。
知ることは永遠のいのちであり、知らないことは滅びである。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14~15)