愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。(1~2)
イエスさまの十字架のあがないを知った時、罪を完全に赦された深い感謝と喜び、神にある希望と不思議な安らぎを知った。そうして、幼子のように心を許してすっかり主に依存する者となった。
キリスト者の帰るところは何時でもみことば、それも、初めて霊の深みを知ったみことばは、純真な心を奮い立たせて、慣れて鈍くなった霊の感性をよみがえらせてくれる。
救いの初めを思い出す必要は、いつの間にかその単純な喜びに、あれこれと余計なものを付け足して心が落ち着かなくなり、平安を見失い、感謝や喜び希望が薄れてしまうことがあるからである。
それは、目の前のものに惑わされる日々に、信仰が埋没して行くからであり、それらに時を持ち去られ、みことばへの熱心が薄れてしまうからである。
キリストと共に在れば、信仰の年数が増して行くほど喜びは深くなり、感謝に満ちあふれて、主への信頼は増し加わり、従順は祝福の経験から容易いこととなる。
みことばの知識が増すほどに、みことばの生きて働く力を多く経験し、その信仰は強かで、また、穏やかでもあって、試練に動じることのないものである。使徒たちのように・・。
その信仰の成長は、ただ、キリストに拠るあがないの十字架をたまわって、聖され義とされた者としてそれを負い、聖霊の導くみことばを聴きつつ御足跡を辿る時である。
みことばは私たちの内で永遠のいのちの糧となり、みこころに導いて神の喜びに至るのだ。