石ころ

種は腐らない②


 イエス様をお伝えしたときは何時も同じ事を感じる。それは放蕩息子を迎える父の大盤振る舞いのような祝福。生まれたての子のように上手く言葉にも表せない祈りに、打てば響くように応えてご自身を証ししてくださる主。

 一週間ぶりで彼女の家に行って聖書を開いた。顔を輝かせて迎えてくださって、待っていて下さったことが分かった。一週間前とはずいぶん様子が変わっていて、もう、人のことをあれこれ言ったり、暗い思いを口にされることもなかった。

「本当に楽になった。あれからいつでも祈るようにして、家族のこともお祈りしている。」と言われた。「でも、このアーメンっていうのは誰かの名前?わからへんから祈るときに私は言ってないよ。」といわれて自分のうかつさに平謝り。主はこんな伝え方さえ用いなさるほどに人手不足なのだ。

彼女の祈りはそれでも主に受け入れられていて平安を頂いて居られた。先週はあれほど「私は何も間違っていない。」と言い続けて居られたのに、彼女の口から悔い改めのお祈りをしたと聞いたとき主が導いておられることを知った。この主がいてくださるから私は安心して何でも出来るんだ。

 主の大盤振る舞いを頂いても、いっときお腹がいっぱいになっただけで去って行かれる人もある。主のご真実さに気づいて主を求め続けて行くことは本当に難しいようだけれど、お伝えするときにはいつでも誰であっても、私は此処は良い地だと信じて期待をしてしまう。

関わりたくないという思いが来るのは、この自分のお人好しさが愚かしく思えるからなのだろう。でも、こんな時のお人好しは神様譲りなのだと知ることができたことで、これで良いのだと平安を得た。


「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」(マタイ9:37~38)

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