石ころ

恵みに価する捧げもの(創世記43章)

 

さて、その地の飢饉は激しかった。(1)

神は、世に起こるすべてを事の初めからご存じである。それゆえ激しい飢饉には備えがあり、聴く耳がある者には導きがある。主はすべてを通して、私たちの信仰に在る交わりを求めておられるのである。

 

ヨセフの家族にもすべての必要は備えられて、主が彼らの日々を生かされている。
ユダはヨセフが命じた、弟と一緒に行かなければならない事の次第を、父に繰り返し話して、何も誓わなかったが忍耐深く説得している。

 

ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。(8)

 

ユダは、「お父さんも私たちの子どもたちも生き延びる」と語った。
神のご計画は誰もいけにえにはしない。人は神のことばを聴き続けて信頼する度に、神の恵みを経験して勇敢な者とされて行く。

 

もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです。」
父イスラエルは彼らに言った。「それなら、こうしなさい。この地の名産を袋に入れ、それを贈り物として、その方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、ピスタチオとアーモンド、
また二倍の銀を持って行きなさい。おまえたちの袋の口に返されていた銀も、持って行って返しなさい。おそらく、あれは間違いだったのだろう。(10~12)

 

信頼関係の無い所では、何かを差し出すことで取引をする。全知の王である神にさえ、何かを差し出していのちを得ようとするが、私たちのために支払われた、御子の命に価するものなど世に存在しない。

 

戻されていた銀は、彼らには差し出すものが何も無いことを語っている。ただ、従順して一方的な憐みを受ける者であり、礼拝する者であることにヤコブは気付かない。
返された物を二倍にしても三倍にしても、無意味なお荷物に過ぎない。

 

そして、弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。
全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。(13~14)

 

ユダの説得にやっと「息子を失うときには失う」と悟ったイスラエル。握りしめていた息子を神の憐みに委ねたのだ。自分の命が追い詰められた挙句ではあったが・・。

 

彼らがヨセフの家の管理人に自分たちの無実を訴えたとき、

彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」それから、彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。(23)

 

「あなたがたの神、あなたがたの父の神が」とエジプト人から、彼らは神の恵みを教えられた。そう、ヨセフがしたことは事の初めから神の備えに拠る。

 

兄弟たちは、ヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。自分たちがそこで食事をすることになっていると聞いたからである。(25)

 

神の備えた恵みの前に、自分たちの贈り物を用意することに恥ずかしさを感じる。何も差し出すものを持たない者の潔さは、何にも増しての主の備えである。

 

ヨセフは彼らの安否を尋ねた。「以前に話していた、おまえたちの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」
彼らは答えた。「あなた様のしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて彼を拝した。


ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これが、おまえたちが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ、神がおまえを恵まれるように。」(27~29)

 

十一人の兄弟がヨセフにひれ伏したときに夢の預言が完成した。良き計画を備えてくださった神と、ヨセフに彼らが差し出すものはただ一つ。神の言葉がそのままに成ることであり、他のものはすべて的外れなものに過ぎない。

 

ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。(30)

 

ヨセフの涙はすべてをきよめて、ただ懐かしく愛おしくあったのだろう。
神のご計画の下であっても不遇な時を過ごすことがある。そこで受けた傷や痛みを癒やして、忘れさせ過ぎ去らせてくださるのは、受けた傷も痛みもご存じのキリストである。

 

そう、十字架は加害者の罪も、被害者の痛みも負ってくださった場所である。ヨセフに在っても時の制限のない神には、十字架のあがないが彼の魂を健やかに保ったのである。

 

彼らはヨセフの前で、年長者は年長の席に、年下の者は年下の席に座らされたので、一同は互いに驚き合った。
また、ヨセフの食卓から彼らの分が与えられたが、ベニヤミンの分は、ほかの者より五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔い心地になった。(33~34)

 

名前と年齢を知られている。此処まで用意されても彼らが弟のヨセフに気づかない鈍感さは、彼らがヨセフをどのような者と、量っていたかということである。また、預言をどれほどに否定し、認めたくないか、ということの現れでもあろう。


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