石ころ

義認,そうして聖化について

 

罪をあがなってくださるキリストの十字架を知り、私の救い主とイエス・キリストを告白した時、その信仰によって神は義と認めてくださった。キリストに拠ってあがなわれた私の、過去、現在、未来、すべての罪を神はキリストの故に無罪としてくださり、「聖」とし「義」として罪の重荷から完全に解放してくださった。

 

救われた者の義の現れは、「創造主である真の神だけを礼拝する」という行為である。真の神を神としないことが人類の最大の罪であるから。

 

しかし、生まれながらの罪の性質が一転して聖くなるわけではなく、キリストを知らなかった昨日までと同じ部分を抱えつつ、聖くありたいと願う理想と、弱さゆえに目の前の現実に妥協する自分との戦いが始まる。

 

罪の性質はほとんど無意識的に支配していて少し気を緩めれば、罪深い思い、神抜きの計画、自己中心な願いなどと、キリストに出会う前までの日常に戻って行くのだ。
そのために、助け主である聖霊は生まれたてのキリスト者と共に住んで、みことばを開く度に神を解き明かし、折に叶った助けを与えて導き育ててくださるのである。

 

その方は本人が意識していない初めから導いておられ、キリストを救い主と告白させてくださった方でもあるのだ。
此処に「始めにわたしが選び」と言われた神のことばがある。すべては神の介在によることで救いは一方的な恵みなのである。

 

罪の処罰から解放されていても、罪の性質が存在するキリスト者の歩みは、天に召されるまで罪と無関係になることは無いが、キリスト者が罪に囚われている必要はない。

 

私は、歳とともに短気になったり苛立ちやすくなり、批判したり、偉そうな言葉を口にして、そんな自分にハッとすることがある。そんな時は「イエスさま」と救いを求めて御名を口にする。
御名を口にした瞬間に、罪に捕らえられた心はキリストので血の洗いを受けるのである。このことはすべての罪との対決に有効である。

 

人はこの古い肉を着ている限り、何をしても何処かに罪を帯びている。存在そのものが罪でさえあるのは、神ではないからである。
また、すでに処理された罪を見張っていることは罪に対する執着であり、自分の罪に執着する時、他人の罪にはそれ以上に執着するのでいよいよ罪の泥沼に引き込まれて、訴える者サタンの虜となり罪に纏わり付かれてしまうのだ。

 

 聖化を目指して生きることで人格が高められて行くとは思えない。高潔なモデルを見てその人の真似をする事ではない思う。其処には必ず裏表や取り繕いが入り込む。
神は一人ひとりを個性的に造られた。完成された自分のモデルは神の中にある。

 

同じ優れた人を増産することは神には簡単な作業だろうけれど、一人ひとりを愛して、それぞれに相応しい賜物を与えて、個別のタラントを備えて、その人だけの命の生き方を備えられ、他にはない唯一の人を繊細な創造をもって造られている。

 

同じ人がいないということはどれほどに尊い存在であろうか、これは奇跡なのだ。それゆえにその一人ひとりの人生は、聖霊が共に居てすべてに手間暇をかけて関り、導かなければならないのだ。

 

十二使徒は全員個性的で、誰かのようになろうなんて一言も書かれていない。キリストと一緒にいると自分らしくあることに安息させてくださる。
それは欠点があって叱らていても、イエスさまの近くに置かれる人も、そうでない人も、「ペテロのようになろう」「ヨハネのようになろう」なんて誰も言わない。

 

聖化は初めに神が、私を母の胎で組み立てられる時、計画された人に近づくことであり、それは人の知らないことなので、キリスト者のうちにおらえれる父なる神、イエス・キリスト、聖霊とのお交わりの中で、みことばを通して育てられて行くことである。

 

その人は、キリストの言葉が曲げられると猛烈に腹が立ち、キリストが誤解されると悲しくてたまらず、キリストのみことばが語られキリストが愛されていることを知ると、嬉しく幸せな気持ちになるのだ。だから多くの人に福音を知らせて、キリストを喜ぶ姿が見たいのである。これは聖化されて行く者の反応であり、現れである。

 

此処に人間的な善悪は無関係で、そもそも善悪とは神が「食べるな」と言われた木の実を食べて入って来た罪であり、神の基準ではない。人は善悪を知った時に罪が入ったのだ。

 

聖化は主と共に生きる霊の深い交わりのうちに、貪りの罪に近い体も、感情や思いが罪を掻き立てる魂も、聖霊の導きの下に置かれることであり、それは主が初めに計画してくださったことであって、神のわざによって栄化に至るのである。何と素晴らしいキリスト者の未来であろう。

 

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(1テサロニケ5:23~24)


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