石ころ

証するものはみことば(ヨハネ2章)




ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。(ヨハネ2:13~17)


主のうちに、人の常識では計れないことを見聞きしたときに、みことばを思い出すのは弟子の証明である。みことばに照らしてことを悟るのだ。

そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。(ヨハネ2:18~22)


イエスさまと居る者には、その時はわからなくても時が来たら、みことばを思い起こさせて、神のキリストの確信を与えて信仰を守ってくださる。信仰生活は主の時を待ち望むことである。

イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。(ヨハネ2:23)

神のわざを見ても人の心は簡単に変わる。思い出すべきみことばを持ってない者は、翌日には「十字架につけろ」と叫ぶのだ。
今、キリスト者に折々のみことばを思い出させてくださるのは聖霊である。しかし、蓄えられていないことばは思い出せない。

しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2:24~25)


キリストを信じる者が、「神の子」であることの証明はみことばでしかない。キリスト者も、人の言葉の証言には拠らないのだ。

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