石ころ

弟子の条件⑩(ヨハネ21章)

 

 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(18~19)

 

「望まないところに連れて行く」神の子どもとされ、みこころを生きるペテロが、やがては人手に任され、彼らの好きなようにされることで、神の栄光を現わすとある。それは、まさに、キリストの御足跡を辿ることである。

 

 救われた者の国籍はすでに天にあり、世の扱いに一喜一憂する者ではない。
ただ、歩んでいる道がイエスの御足跡であるか、聖霊が導かれるみことばのうちに在って、神の平安に居るか、そのことによって安息する者である。

 

大切なことは一つである。イエスは十字架で神の栄光をあらわされた。ペテロはイエスが備えられた道を行き、神の栄光を現わす十字架に殉教を遂げるようになる。

 

 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」(20~21)

 

しかし、未だペテロの弱点が露わにされていた。
失敗をした自分に比べて、完全に見えるヨハネにはどれほどの祝福があるのだろう・・、それが気になったのだ。

 

イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22)

 

大きな使命をたまわっても、未だ興味が外に向くのは、たまわったみことばに思いを巡らせてはいないからである。
そこで、「あなたはわたしに従いなさい」と言われたのは、「あなたはわたしのことばだけを思い続けていなさい。」と言う意味であろう。

 

 弟子は、日々みことばをたまわり聖霊に導かれて、その日の分を働く者である。何処に他人の分まで抱える余裕があるだろうか。
今日、神が自分に望んでおられることは何かと、本当に思い巡らせるなら、自分の成すべきことで精一杯であろう。

 

 そのようなペテロが、見事に自分の役割と全うしたのは、助け主なる聖霊の神が共に居て日々に導き、彼に神のご計画を完成してくださったからである。

 

此処に私たちの希望がある。皆、ひび割れた器に過ぎない。ただ、聖霊の導きに従順であるなら、道を迷うことはない。私たちを知り尽くす強い味方が、うちに居られるからである。

 

これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(24~25)

 

聖書に書ききれないイエスの御わざは、弟子たちが経験していることである。聖霊はイエス・キリストの御足跡を歩ませてくださる。使徒の歩みが、書ききれなかったイエスのすべてを語っている。


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