巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。(9~10)
その日にはエデンの園でエバを誘惑した古い蛇、ヨブを神に訴えたサタン。それらの勢力は天から地に落とされる。それらはもう神に近づくことはできず、主にある兄弟を訴える手段を持たなくなる。天の声は神の勝利を宣言している。
しかし、信仰によりキリストに在る御救いを受けたものは、今生きていても死んでいても、御父と御子と聖霊による交わりの中に置かれ、全能の神を持っている。これこそ永遠の勝利でありすべてを持っているのである。もう、私たちを神に訴えて引き離すものはなく、救いは完成しているのである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(11)
今もこれから先も、小羊イエスの血により頼む者は、神に告白した罪も、告白してない罪も完全にあがかわれており、サタンにも悪魔にも訴えられたり、責めたてられる隙を持たない者である。このことは、みことばとキリストの信仰に踏みとどまる救いである。
キリストに信頼する者は自らを守るものを何も持たず、ただみことばにより頼む者であり、それゆえ滅ぼすものはいないのである。
また、その事実を証するみことばに留まる時、敵は反論することも反証することできず、此処に訴えるものからの勝利を勝ち取って行くのである。すべての事実は、みことばが成ることで現れるからである。
仮に肉体を滅ぼしても、すでに天に国籍を持つ者には、永遠のいのちと新しいからだを備えられており、死にさえも勝利しているのである。
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」
自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。(12~13)
サタン、悪魔たちは滅びまでの時間が三年半であることを知っており、一人でも多くの人をゲヘナへの道連れにしようとする。この時、地は携挙から残された人々の命を狙って、それらのものに蹂躙される所となる。
神に愛されている真のイスラエルを追うのは、妬みであり神の勝利を妨げるためである。
しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(14)
大患難時代の三年半の間も、神はご自分のものを守り養われる。荒野と言えば出エジプト時代のマナの養いウズラの養いを思い出すが、それらはモーセの祈りを通したことが、この時は、真のイスラエルをあらゆる不思議と御力をもって神が顧みられる。
ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。
しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。(15~17)
彼らにはこの逃避行において、万軍の主である夫を真に知る時、経験する時となるのである。
平和な時ではなく、信仰の戦いと苦難の中で神の守りを経験することは、赦しに満ちた唯一の味方を知ることであり、それは痛みと悩みの中にあっても、何ものにも変えがたい甘い経験でもあるのだ。
大患難時代の真のイスラエルも、使徒たちの味わった経験をするようになるのだ。天において彼らの話題が弾む日のために・・。