石ころ

閉店の町


グローバル資本主義の恩恵をのほほんと受けてきた私。安いと、品物が豊富だと喜んでいた。気づいたとき、地域の疲弊は一面に広がっていた。代々この地に生きて来た親しい人々に忍び寄り、彼らに地域への絶望をもたらせていた。
「息子に言われて店をたたむことにしたの。もう此処は駄目」
大切な友からそう聞いたとき、鈍い私にも、今起こっていることの重大さがやっと分かった。

地域の産業が崩れてしまっていた。親から子へと受け継がれて来た家は担い手を失うだろう。次々と店も工場も閉められ、産業の継承は断念されてしまった。倒産ではない、ちゃんと計算して切り上げる。彼らの冷静さが逆に絶望の深さを思わせる。

どうしてこんなことに、何時からこんなになってしまったのだろう・・。それは、私の安く買いたい、色々選びたい、そんな欲も後押ししていたのだろうか・・。

初めて近くにスーパーが出来た時とても嬉しかった。開店の粗品を貰って、チラシの特売品を手に入れて、これからは何時も此処で安く、新鮮なものを買うことが出来るのだと幸せだった。あれが始まりだったのだろうか・・。

確かに、あれから魚屋がなくなり八百屋がなくなった。そして、呉服屋も洋品店もなくなった。鞄屋がなくなり家が次々と壊されて、町の商店街は駐車場のようになった。今に車もなくなるだろうと・・そんな言葉も聞いた。

今は、すべてをご存じのイエス様に祈る。時間は残った。彼女に与えられた豊かな時間が、イエス様あなたを知るために用いられますように。将来をあなたの御手にお委ねして、あなただけに期待して安息することが出来ますように。


あなたがお与えになると、彼らは集め、
あなたが御手を開かれると、
かれらは良いもので満ち足ります。(詩篇104:28)

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コメント一覧

石ころ
saltさま
コメントを感謝致します。
主の御手を感じるとき、何がなくても満足してしまうのですが・・。
「石ころ」は駄目人間の記録なんですけど・・


とし様
見ていてくださるのですね。感謝致します。
とし
同感です
とても考えさせられます
Salt
「もの」のむこうに人が見えなくなりましたね。「目に見えるもの」のむこうに隠れておらえる方の御手や御姿もなkなか見えまにくいものです。クリスチャンと呼ばれる人さえ、大規模量販店やスーパーやコンビニ的なものを求めます。

オーダーメイドのものづくりや音楽、相手を大切にした福祉や教育に関わる友人たちは、ノンクリスチャンであっても、デタラメなクリスチャンよりも人間的にはずっと安心できるのです。

石ころさんのブログには、生活のいたるところに主を感じる信仰があるので読んでいてほっとします。
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