石ころ

金の鉢に詰められた祈り(黙示録5章)

 

長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
さらに私は、御座──そこには、四つの生き物がいる──と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。(5~6)

 

ほふられたと見える小羊は、十字架を通ってあがないを成し遂げた勝利の主イエス・キリスト。みことばを解き明かしてくださるのは、御父の言葉を語られるキリストである。それは、天でも地でも変わらない。それゆえ天に昇られたとき、地に残される私たちに助け主、聖霊をおくってくださったのだ。

 

小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。(7~8)

 

祈りは聖徒と主との親密な交わりであり、聖徒の祈りが詰まった金の鉢の祈りは、すべてキリストの執り成しによって、御前にふさわしく整えられて収められたものである。また、それはキリストの祈りともしてくださったものである。

 

ただ、キリストの御前にはどんな祈りが置かれているのだろう・と忸怩たる思いになる。それは、感謝の祈りのリストを見たことがほどんどないからである。
祈祷課題は願い事ばかりで、それも毎週同じ言葉が続いている時「祈りはきかれません」と証しているよに思えて辛い。

 

聖霊の導きによって主の御前に祈る日々には、感謝のリストの方がずっと多いはずである。でも、それらはスルーされてしまっている。
買い物を依頼してメモを渡した時でさえ、たとえそれが全部手に入らなくてもお礼は言うものである。

 

 祈りがすぐに、すべて聞かれないのは神の深いご配慮である。なせなら神は良い方であり、ただ私たちに良いものをたまわる方だからである。
問題を通して成長に導こうと、みことばを開いて耳を傾けるのを待っておられるのかもしれない。

 

救い主をほめたたえる感謝の祈りを持って、みことばにひれ伏す時であり、問題ごと自分自身を差し出して、従順する祈りを捧げる時であるかもしれない。
そのような主とのまじわりの中に在れば、問題の解決如何には拠らず、金の鉢に詰まれる祈りは、感謝と喜びのリストがあふれるだろう。


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