聖霊のバプテスマについては、三十年以上出来るだけ触れないで来たが、最近は避けられなくなって繰り返し書いている。すべてのキリスト者の必要を覚え、みこころが成就することを願って祈りつつ・・。
水のバプテスマも沈められて死を通り、よみがえって新しくされることを現わしているが、それは自らが希望して受けるのに対して、聖霊のバプテスマは、この世ですべての力を失って、死んだ状態に閉じ込められた者に対して、神の霊が臨んで生かされる力である。
ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。(マタイ26:35)
イエスの十字架を前にして使徒たちは決心を語った。しかし、十字架刑に際してヨハネ以外は皆逃げたのである。
そのとき使徒たちはイエスとの関係を失い、約束をしていた殉教する力さえもないことを経験し、死者が墓に入るように戸を閉ざして隠れていたのである。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19)
イエスの十字架の傷を見て喜んだのだ。死んだはずの方が目の間の前に現れたとき、その方が見まごう事なき主イエスであることを、その傷に確認したからである。
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:20)
キリストのバプテスマは、使徒を新しくよみがえらせて、神のご計画のために生かす力である。墓からよみがえられたキリストの内に抱かれて、キリストの平安の中にすべてを備えられて働くのである。
キリストのバプテスマは、彼らを死の状態からよみがえらせて、使徒の働きを成させるための力であった。そこには神の明確な目的があったのである。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(ローマ8:11)
死ぬべきからだを主に生かされた時の働きは、みこころを行うために備えられる神のわざである。生まれながらの人にはそれは不可能であるから。
すべてのキリスト者が、聖霊のバプテスマを受けることを主に求めるが、生きている者を蘇生させることは不可能なのである。
それぞれに判断力を持っていて、能力があり、行動力もあり、何でも自分の力で出来る者には、それは不要な力であった。
主は気前の良い方なので願うことを叶えてくださるが、唯一、不要なものはお与えにならないお方である。それが信仰の益にはならないからである。
無用なものによってはいよいよ肉が強くなり、いよいよ聖霊に拠るみことばに依存する信仰から遠くなり、それぞれが良いと思うこと行う力となるだけである。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。(Ⅰテサロニケ5:23)
人はどれほど分かりやすく教えられても、たとえ言葉の理解は得られても聖霊に拠らなければ、キリストの平安によってみこころを生きることが出来ないのである。
聖霊のバプテスマによって生きるのは永遠のいのちである。聖霊が導くみことばが解き明かされると、永遠に続くいのちのために働くようになり、主の良きご計画が、聖霊の導きによって成就してゆくのである。使徒たちのように・・。