このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)
マタイ5章で最近立ち止まっている。
「あなた方の光り」とは何だろう・・「良い行い」とは何だろう・・って、思い巡らせていた。「それによって人々が、天の父をあがめる」ようなこととは・・。
そして今朝、私たちの光りとは、そりゃあ救いの喜びではないか・・って、やっと気づいた。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3~10)
どうにもならない自分と言う者の悲しみ、世にあるもろもろの悲しみも、わかり合えない人の悲しみも、主の十字架を見上げるときに慰めを受けることができる。主はあがなってくださったんだって・・。
みことばは生きて働き、暮らしの中でとりなし、和解し、助け合うことを導いて下さっているから。神からも人からも慰めを受けることが出来る喜びに変えて下さった。
柔和が地を相続するなんて驚きだけれど、そこにある主の約束は確かな望み。地の塩は柔和でよいのだよとの慰めを受ける。
自分の中にない義への渇きもイエスさまにあって満たされ、十字架を見る時に安息することが出来る。
その神の義ゆえに迫害されるほどの生き方が出来るならなんという喜びだろう。
イエスさまは「目には目を・・」という生き方を否定された。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」って・・。
でも、「目には目を・・」それが人というものであり、自分を愛する者を愛するのが人である。敵のために祈る・・それは十字架のイエスさまの祈りではないか。
律法をまっとうすることが出来るのはイエスさまだけ。だから、イエスさまにこの身を避けることによってのみ完全であることが出来る。そう、イエスさまにあって完全であるとされたのだ。
輝かせる光はひとつだけ。イエスさまにあることの喜び、解放の喜びなんだ。
輝け!花婿の財産によって生かされる永遠のシンデレラ!
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