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石ころ

モノローグ (遣わされる者)



こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。(マルコ6:12~13)

イエスさまがお弟子を遣わされたことが、なんだか突然な感じがした。彼らの備えはイエスさまと一緒に居たということと、イエスさまがお与えになった霊的な権威だけであった。
全員、着替えや重ね着のための下着も持たず、お金も袋も持ったずに、彼らはほとんど裸一貫で遣わされて行った。

人から出たもの、人が備えたものが何もないということが聖く思えた。宣教は、主にだけ寄り頼むことで成し遂げられる神のわざである。働きのためのすべての必要は行く先々で満たされ、弟子はそれによって養われるべき者なのだ。
そのことは、全責任を主が負って下さっているということでもある。

マタイには「靴も杖も持たず」と書かれているけれどそれは物であり、マルコで言っている「靴は、はきなさい・・杖一本」というのは、主を証するアロンの杖であり福音の靴のことなのだと思う。

「イスラエルの家の、失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ10:6)と彼らの遣わされるところが書いてある。
その宣教の働きは、まず第一に誰のためのものであるかこの言葉でよくわかる。それは、神様のご計画を成すためである。
神のご計画に人が応答するとき、弟子たちはそこに留まり、イエスさまのわざが行われたのである。

彼らを受け入れない家は、福音の靴跡を残さず塵のように払って去って行った。彼らにもうその地のことで、思い煩う必要はないということだと思う。
弟子には伝える責任の解除であり、救いの計画はそこで絶たれたのである。人には自分の結末を選択する自由が与えられているのだから。

お弟子は12人すべてが遣わされた。その時、弟子の誰かが「私は、そのような役目を果たすには相応しくないのではないか・・」と考えて、ペテロに「あなたはイエスさまを最も良く知っているのだから、この働きのための教育をしてください。」などと依頼し、ペテロがそれを承諾したなら、彼はペテロの弟子となり、ペテロはイエスさまの弟子を盗ったことになるのではないか・・そんなことを考えた。

福音を伝える責任は弟子すべてに有り、弟子としての必要のすべてはイエスさまが直に備え導いてくださる。
私もイエスさまの弟子でありたいと思う。すべてを知っていて下さるイエスさまだからこそ、どんなことでも出来るのだから。

この時のお弟子たちの霊の状態はわからないけれど、すべての必要はイエスさまによって満たされ、働きのための権威が与えられていたことは事実だ。
彼らがイエスさまのわざを行う事が出来たのは一つの事による。イエスさまの道具、通り良き管であったからであり、イエスさまだけに彼らが依存し、人間的なものには頼らなかったからだ。

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