大祭司が繰り返し、人の罪をあがなう生け贄と捧げものを捧げても、それは天にある救いの影に過ぎす、古びゆくものであって完全に人を救うことはなかった。
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(10)
人が神に反抗することや、従いたくてもそれが出来ないのは、罪ある人の心には自分の思いがぎゅうぎゅうに詰め込まれているからである。
しかし神の思いを持つ者は、神と一つの心なので神のもの、神の民である。
神の心がすべての人の心に書き記されて、神の「わたしの律法」がそっくりそのまま人の思いとなるなら、それは神と一つの心なので神の栄光を現すようになるだろう。その時は葛藤を覚えることなく、心のままにみこころを生きることが出来るだろう。
また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。(11)
すべての人が、心に書き込まれた神のことばを読み解くなら、誰に教えられずともみこころのままに、今日を生きるようになるだろう。しかし・・まだその現れは見ていない。
今、神の右の座に在って、執り成していてくださる大祭司キリストを頂き、贖罪の完全によって義とされ、一方的な神の恵みの約束を持っていても、たまわった中身を、聖霊によって安息するまで知ることが必要なのである。
心に神が書き込まれた、恵みによるキリストの律法に生きるためには、心の中の古いものを捨てて、霊の目がはっきり開かれ新しい契約を受け取り、従順することが必要である。
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(12)
ユダヤ人も異邦人も同じ神の憐れみによって、キリストを通して成就した神の一方的な契約は、神と人の完全な関係の回復であり、キリストの贖罪の完璧から出たことで神の計画によることなのだ。
もう私たちは、自分の罪を恐れたアダムとエバのように、神から逃げ隠れしなくても良くなったのである。
神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。(13)
神が心に書き記してくださった新しい契約は、永遠に消えることのない救いを実現してくださるものである。