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石ころ

ベテスダの癒し2



ベテスダでイエスさまに癒された男は、パリサイ人にイエスさまが癒し主であることを告げる。
この時のこの男の本当の気持ちは分からないけれど、そもそもイエスさまはこの男に、口止めはされていない。

ただ、「もう、罪を犯してはならない。」と言われただけ・・。それは、彼が告げるその時の彼の心のありかの問題だと思う。

 私はイエスさまのこと、知ったことや経験したことをぺらぺらとよくしゃべる。
それは主が嬉しくてとても黙っては居られないからであり、共に御名を崇めてくださる方に出会うなら、それこそもっと嬉くなって喜びを分かち合いたいから・・

だから、それは深く考えるという魂の作業を通さずに、時が良くても悪くてもそのことを真っ先にする。後のことは全部イエスさまにお任せで・・。

 もし、この男がイエスさまをかばって黙っていたなら、この男の回復はあるいは彼自身の栄光になるかも知れない・・それこそ私の最も恐れること。
この男のおしゃべりが、イエスさまが神の御子であると明確な宣言のきっかけとして用いられている。

イエスさまはこの後、ご自分が神の御子であることを明確に語られる。父の神よりすべての権を委ねられていること、ご自身のわざはすべて神のわざであるとはっきりと語られる。

 今、このことを言うべきだろうか・・と時を気にしたり、私のようなものが語ることは主に恥をかかせるのではないだろうか・・などと、まるで私がイエスさまをかばうような心遣いは、愚かしいサタンの気遣いだと思う。それは罠。

かばわれるのは私であり、私こそが気遣われている者なのである。どれほど考えても私に神のなさることがわかるはずもない。
けれども、主は私のすべてをご存じであり、私を引き留める方法も、進ませる方法もご存じなのだから。

道を誤った時には鞭を下さるだろう・・幾ら鈍くても、打たれたら痛いとわかる感覚があるのだから何も心配しない。主は人をコントロールされないけれど、御真実な方であることを知っている。

そもそも人は、イエスさまをこの世で一日でも長く生かすことを望める者ではなく、イエスさまの十字架のみわざを待ち望む他に、なんの望みもない者なのだから。


私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。
私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。 (詩編39:1~2)

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コメント一覧

石ころ
エシュコルさんへ
イエスさまが、私たちのすべてを負って十字架であがなって下さいました。

私たちが良いことをしても、悪い事をしても、それらの中に紛れ込んでいる罪、

ぺらぺらとしゃべる無駄口も、不信仰な言葉も、すでにあがなってくださったのです。

すでに赦されていますから、責任を取ることも出来ず、感謝するばかりです。
エシュコル
確かに・・・
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
「語るな」とはこの場合言われていないが、人は語った事によって責任をとる場合もあり、その辺は気を付けないといけないですよね。
ただ「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」として、そして語るべき時には語るが、黙っている時は沈黙している。これが必要なのかもしれません。
しかしこの事件も十字架に付けられる一因でしょう。
保護者
・・・・少し遅かったようです。(泣)

言葉の使い方、表現の仕方が十分でなく
もしかしたら読んだ方を躓かせるのではないかと気付き非公開で!と言おうとしたのに遅かった・・。

イエスにとっては大きな問題ではない、とか・・・。
以後 気をつけます、すいません。
保護者
「良くなりたいか」というイエスの問いに、病人は状況説明をしており正しく答えていません。
しかし・・イエスが言葉を語られた→すぐに良くなり→歩き出した。
イエスの一方的な憐みのようにも感じます。

御言葉がその病人に成就したのに、その人は自分の癒し主を知らない。
しかし・・イエスは再び この人に出会い自らを現して下さった。

イエスにとっては迫害される事よりも 父が今も働いておられるように自分も働く(私達に仕えてくださっている)事の方をえらんでおられます。
事の推移は知っておられるでしょうし。

このようなイエスを「見て」声を「聞いた」なら、私は語らないではおれません。

「彼が告げるその時の彼の心の有り方が問題だと思います」・・・そう思います。
彼の心が彼の問題です。
でも、この病人がどんな動機で語ったにせよイエスにとっては大きな問題ではないですね。

そして 私も最近思っていたのですが、
「深く考えるという魂の作業を通さずに・・」
これはとても大切な事のように思えるんです。

確かに 知識を吸収し実際としてそれを活かし、キリスト者として立派に生活するのは大切だし 土台としては必要な事なのですが、
教理が・・とか十字架が・・とか 
そんな理屈はぜ~~んぶ飛び越えて主を喜ぶ事の方が、私は勿論 主も喜ばれるんじゃないかと思っています。
ここに、「私はあなたのもの、あなたは私のもの」といった甘~い(一つになった)交わりがあるんですもの。



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