石ころ

「私には信仰がないから」と言わないで

 

 キリストが私たちの過去、現在、未来の罪を十字架で負って、御前に聖い者とし神と和解させて下さった。キリスト者はみなこの事実を信じ告白して救われた。
でも、信仰生活において「私には信仰がない」と言う事実が明らかになって行く。

 

その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

子の癒しを求めつつも疑った父親の叫びのように、私たちも同じ経験をするのであり、ただ、キリストのうちに置かれているという、みことばに在って平安を得るのである。

 

 キリストが負ってくださった最も重い罪は不信仰である。創造主を知らず、ひとり子をたまわるほどの愛を信じなかったこと。良い方であり、唯一永遠に変わることのない味方である神を信じないで、救いを得ずに勝手に生きて滅びに至り、創造主を悲しませる罪である。

 

このことを認めて悔い改め、新しい関係を築いて行くことが救われた者の信仰である。
だから主を「アバ・父」と呼んで、誰よりも、何よりも頼りとする信頼関係を築いて行くのである。この関係は家族として父と子の愛の関係であり、信仰という行動や、心の中にあるものを覗きこんで計るような関係ではない。


みことばに安息できない時に、助けを求めることが出来る関係であり、みことばに平安を得られない不信仰に、助けを求めて叫ぶことが出来る関係である。

 

聖霊はその時に主に導いてくださるお方である。心を頑なにしないで「アバ・父よ」と叫ぶことを助けてくださる。だから、聖霊に逆らう者は赦されないと言われた。逆らうとき助けを求めることが出来ないからである。

 

 あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。(マタイ21:22)

第一に求めるものは主に信頼するための信仰である。それは世で生きる限り、絶え間なく求め続けることになる。かって神に依存して生きたことは無く、先祖代々主に逆らって生きて来たのであり、ほとんど無意識に自力で生きようする者だからである。

救われた者は完全なキリストの信仰に拠って生きるようになり、私たちの平安は此処にしかない。

 


 交わりによる祈りに応答してくださる主を経験しつつ、神の愛を折々に味わって信仰は育てられて行くのである。
そうして、私たちを孤児にはなさらず子として訓練して下さる時も、父である方に信頼し、良い時も悪い時も御前に出て安らぐようになるのだ。

 

この時、まるで神の声を聴くような関係を経験する。それは人の不完全な中にあって、ただ、主に信頼してより頼む者への神の助けである。それは日々の交わりの中で、主を求めることを喜んでくださることを悟らせ、完全なキリストのうち置かれている平安である。

 

「私には信仰がないから」と言わないで、その必要を満たしてくださる方、御子を与えるほどに愛してくださっている父なる神に、自分の足りなさをもすべて捧げて安らぐのである。キリストが執り成していてくださるから、言葉足らずを心配しなくてもよい。
ただ、「イエスさま」と御名を呼んでひざまづくだけでも、聖霊の呻きによって、すべての願いは神には知られているのである。三位一体の神が味方なのだから。

 

私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(Ⅱコリント4:7)


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