石ころ

主の名を呼ぶことを始めた(創世記5章)

 

 人が主の御顔を避けて生きるようになった時、その体や心に飢えと渇きが襲い貪りも生まれた。創造主を離れては、完全な満たしは存在しないからである。
互いに競い戦って多くを得た者が支配するようになり、愛さえも力によって得なければならなかった。

 

アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言った。
セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。(4:25~26)

 

 神はアダムの祈りを聞き入れ、アベルにある神の祝福を継ぐ者としてセツを与えられた。セツから生まれたエノシュは弱さを知っていた。神の力が働くための弱さである。弱さは神を求めて祈ることを知るのである。

 

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

 

神に依存する事によってのみ、すべてに満ち足りることができるのは、作者こそ真に何が必要であるかを知っているからである。

 

神はセツの家系から出たエノクの信仰を祝福された。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(24)

エノクは死を通らずに天にあげられた。それは世の終末に起こる人類の最高の望みである携挙が、ありもしない絵物語ではないことを信仰者に示すためである。


また、いよいよ地に悪の力と暴虐の蔓延った時、人類を絶やさぬためにノアの信仰を導き備えてくださった。

 

 誰が自分たちの子孫を守る祈りを知っているだろう・・。ただ、神を求める祈りによってすべては備えられたのである。
それは神の近くに居たいと願う祈りであり、祈りに導いてくださった神の良き計画に拠ることである。


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