此処には二つの宴会の様子が書かれている。ひとつは地上の宴会、もうひとつは神の国の宴会である。
地上の宴会は互いに招き合い上席を競い合ったりして、大繁盛のようすがイエスさまの言葉から分かる。
招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:7、10~11)
日本では良くある絵だけれど・・これが演出だったら偽善であって、主は口先ではなく心を見て居られる。
また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。
祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」(ルカ14:12~14)
此処では「貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たち」は、彼らの義の行いのために備えられているようである。
イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。
するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。(ルカ14:15~16)
ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』(ルカ14:18~20)
地の宴会と比べるとき、神の国の宴会はなんとみじめなことだろう。招いた客が誰も来ない宴会ほど悲惨なものはない。主の準備された宴席、「神の国」を望む者は誰も居ないことをイエスさまは話された。
しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』
しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』(ルカ14:21~22)
此処では「貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえ」が神の国の必要を満たす者として書かれている。
主はケチなお方ではなく、救いの席を豊かに準備してくださっていることがわかるのである。
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。(詩編139:13~15)
主はすべての人の造り主である。主の関わらない人はひとりもいない。主は誰をも祝福の内に母の胎で組み立ててくださった。
弱さを持って造られた彼らは、地では人の義の行いをなさせるものとして、また神の国では神の恵みを無駄にしないための役割とはなんと光栄な存在であろう。
それは本人の努力とはなんの関係もなく、初めからそのように造られた恵みである。
主人は言った。「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」(ルカ14:23~24)
私も通りすがりを主に引っ張って来て頂いた者、時をかけて追い込んで追い込んで連れてきてくださった。
今、神の国の食卓は末席であろうとテーブルの下であろうと、主と共に食事をするお交わりの中で、御声を聴き続ける恵みのゆえに、もうそんなことはどうでもよいと思えるのである。
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事