石ころ

「キリスト者の財産」 (ルカ15章)




 15章では、イエスさまが「放蕩息子」のたとえを話された。
弟息子が「財産の分けまえをください。」と要求し、父から与えられた財産をもって旅立った末、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たし飢えて帰って来たというたとえ話。

ここで話されている父とは神様のことであって、飢えることはみことばの飢餓である。
彼がやりたい放題をして、財産を使い尽くしたことは放蕩とすぐに分かる。しかし、知識を持っている行動力もあるということで、意欲に燃えて自分の義を成そうとすることも「自分のやりたいことをする」であり、それが父の家にいて成されるのでないならそれも放蕩。

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)


 彼らは豚を汚れているとして避ける者であった。しかし、その餌さえほしくなるほどに飢えたところで、彼の救いは「我に返った」ことである。
みことばに飢えるとき、信仰にない人の言葉にさえすがりたくなる。その時「我に返る」ことができたのは、待っていてくださる父の熱心にある。

15章の始めには、百匹の羊のうちの1匹が迷子になり、その一匹を見つけ出した喜びが書かれている。
揃った10枚の銀貨の内、失った1枚を見つけ出した喜びが書かれている。
いずれも失われた私たちに対する主の熱心が語られており、人が救われるのは主の熱心に拠ることである。

命を守り養うのは主ご自身であって、主と共に居るなら「わたしのものは全部おまえのもの」(ルカ15:31)と言われた。
主から何を得るかではなく、万物を生み出すみことばを持って居られる方に居ることによって豊かなのであり、主ご自身こそキリスト者の財産なのである。

人はいのちの言葉を離れると死ぬ者であり、主の元に戻ったとき永遠に生きる者、「死んでいたのが生き返って来た」(ルカ15:32)と書いてある。
ただ、兄息子がいつも父と居て「子山羊一頭くださらない」としか告白できなかったのは、彼が父の豊かさを知らなかったからであり、何十年も信仰を持っていても、主の豊かさを経験していないなら悲しいことである。


 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(ルカ15:1~2)


みことばに渇いて求めたのは罪人であり、正しい人たちはみことばに敵対していた。
「長年あなたに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」と言う兄息子も、罪人を裁く正しいパリサイ人律法学者たちも、天に喜びをもたらすことはない。
彼らが神の義に渇くことはなく、いのちの糧を主のみことばに拠り頼むこともないからである。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカ15:10)

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コメント一覧

ムベ
電気屋さんありがとうございます
全部です!!
これって、ひょっとして宇宙ごとでしょうか・・
でも、もらってもどうしようもないですね。ふふふ・・

今日の必要のすべてを満たしてくださいました。
感謝です。

電気屋
「わたしのものは全部おまえのもの」

そんな父を持つ者は幸せですフ~
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