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石ころ

火曜日のために 祈りの家 

 子ロバに乗ってエルサレムに入られたイエスさまは、真っ直ぐ宮に入って行かれました。12歳で過ぎ越の祭りに来られた時、「わたしは必ず自分の父の家にいます。」といわれた宮です。

しかしそこで主がごらんになったのは、葉ばかりで実を結ばないいちじくのような宮のありさまでした。そこは父なる神様を礼拝するところではなく、人の便利のためだけに用いられる抜け殻のような宮でした。

罪をあがなう生け贄のための動物の売り買い、献金のための両替を商売とする者、しかもそのやりかたも強盗のような手段だったのでしょう。
もっともイエスさまが強盗の巣といわれたのは、神のために実を結ぶべき宮を、人が奪っているということを言われたのですが・・。

宮の中を商品を担いで通り抜ける人々、動物の鳴き声や臭い、その喧噪の様子がイエスさまの怒りから伺えます。
生け贄のための動物を追い払われたのは、ご自身がただ一度の真の捧げ物として、完全なあがないをなしてくださることを現して居ました。勿論、誰もそのことに気づくことはありませんでしたが・・。


 聖なるものを聖なるものとしない所に人の堕落が見えるのです。
「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」{マルコ11:17)

 イエスさまの怒りを聞いて、律法学者やパリサイ人たちはイエスさまを殺そうと相談をしました。彼らは宮を強盗の巣にした張本人なのですが、イエスさまにそのあやまちを指摘されても、心を痛めて悔い改めることもなく、むしろ邪魔者を殺してしまおうとしたのです。

つまり彼らには神様を恐れるということはもとより無かったのでしょう。律法学者やパリサイ人たちも宮の商売人のように、神様のものを自分たちの地位や生活のために強奪していたのです。
人の目に、彼らは神様の最も近くに居るように振る舞っていたのですが、すべては偽りであることがイエスさまによって暴露されました。だから殺そうとするのです。

 イエスさまは父の家である宮をきよめるために大暴れされます。それは、そのような環境にどっぷり浸かって聖さに鈍くなってしまったエルサレムの人々に、聖なるものへの恐れを思い出させるためでした。

イエスさまは夕方にはエルサレムを出て行かれました。イエスさまは世の光りです。イエスさまが居られない所は闇です。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。(ヨハネ9:4)

この記述の後にいちじくの木が根まで枯れたと書かれていますが、彼らの末路が暗示されています。時間は決して止まっていてはくれません。悔い改めることができない夜が来るのです。
イエスさまのお言葉にハッとする時、私たちは慣れ親しんだ環境から出て、静まって主に聴き、すぐに従わなければ何も出来ない夜が襲ってくるのです。

「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:25)

 人を赦すことによって私たちは世から解き放たれ、魂は自由を得ます。聖霊の宮にきよさを保つことが出来ます。
でも、そのことは祈りから始まります。私たちは祈りの家です。主と私の関係においてこそ人を赦すことができるからです。それは人との関係によるのではないので、相手がどのような人であるかは関係のないことだからです。

イエスさまの救いを受けた者は、すべてのことを主と私の関係において処理するようになります。主が「愛しなさい」といわれるから愛するのです。「赦しなさい」と言われれば赦すのです。すべてのことはひとえに私と主の問題であり、私の従順、私の信仰の問題です。

それは私の感情や、相手の行動によって左右されるいことはありません。主は、聞き従うための祈りに応えて助けて下さいます。日々のそうした応答によって、神の愛を知り、赦しを味わうことで、信仰を成長させてくださいます。主の必要を満たし実を結ぶ力を備えてくださいます。

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