「アブラハムは歳を重ねて老人になっていた。」(24:1)とあるが、そもそも選ばれたのが75歳であり、アブラハムは初めから老人として登場している。神はアブラハムが年寄りになるのを待っておられたのだ。人のわざが出来なくなるのを待たれたのだ。
彼は、イサクが与えられる約束をたまわった時「あり得ない」と笑った。この時、今の年齢的な常識からそんなに違ってない。
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。(17:17)
イサクは彼が100歳の時に生まれ、不可能を可能にされる神のわざを見たが、その後のアブラハムに起こっていることにはもっと驚かされる。
サラが亡き後に、アブラハムは再婚して子を6人も儲けている!(創世記25:1)この個所には仰天するが、一番驚いていたのはアブラハム自身だろう・・。
つくづく人は、神に在って自分がどのような者なのかを理解できないと思った。
そもそも、アブラハムをすべての国民の父として選ばれたのが75歳。不可能から始まる故に、それが神のわざであるという確信を得る。私たちの平安もそこにあるのだった。
それゆえ、聴いたみことばが事実と成って行く中で、日々主を知り聖霊に聴いたみことばに素直でありたい。笑わずに幼子のように「アーメン」と、自分を決めつけないで御名をあがめ、神をほめたたえつつ生きたいと願った。
信じる者には、神にはどんなことでも出来るのだ。いや、信じ切れなくて笑ってしまっても・・。それが何時の時代も変わらないのは、今も神はアブラハムにイサクを始め、多くの子らをお与えになった神なのだから。
このことは、ついつい常識的に自分を見て、年齢という枠に寄りかかって妥協しよとするが、そんな逃げ口上は神には通用しない厳しさでもある。
主に在ればアブラハムは永遠の青年、同じ神に在ってキリスト者もそうであろう・・。
そんなキリスト者に老後は無い。それは主のご計画から離れた所にあるものだから。終活も不要。イエスさまが永遠の住まいを備えてくださってあるのだから。
ただ、その中に在っても「ああ!ボケていた・・」なんて失敗が、日常茶飯事なんてことも許してくださっている。そこではへりくだることを学び、弱さの中の助けや親切に感謝するためである。
生まれつきの弱さを持っている者には、強さゆえに回り道をする人よりも、主に用いられることにおいては有利かもしれない。みことばに幼子のように素直であれば・・。